あなたは中村清という男をご存知でしょうか?
いや、その前にあなたは何年生まれでしょうか?およそ日本人の平均寿命が86歳と考えると、その真ん中の値は43歳、つまり1978年生まれです。もしあなたが今43歳だと考えると、中村清先生がお亡くなりになられた時、あなたはまだ8歳です。このように考えると、今の日本人はほとんど中村清先生のことを知りも知らなければ、ましてや現役時代なんて知る由もないでしょう。
しかしながら、あの瀬古利彦さんの恩師だと書けば、ピンっと来る方も多いでしょう。オールドファンの方はもちろんのこと、最近でも良い評判、悪い評判含めて箱根駅伝やマラソン解説で名解説ぶり(受け手によっては迷解説ぶり?)を発揮されている瀬古さんです。ちなみに私は瀬古さんの解説は大好きです。増田さんのはプライベートの話ばかりでレースの解説がないので、イマイチです。
今回は中村清先生から学ぶ「最高の練習法」ですが、その前に中村清先生がどれだけ激動の時代を生き抜き、どれだけの功績を作られたのかを少し書いてみたいと思います。中村清先生は1913年に日本の漢城(ソウル)にお生まれになられました。日本の漢城と書いても今のお若い方にはピンっと来ないかもしれませんが、当時韓国は日本領だったのです。
第一次世界大戦が1914年に始まり、1918年に終わりました。若いアドルフ・ヒトラーも国の指導者としてではなく、最前線で一兵士として戦っていたころで、日露戦争が終わってからまだ8年しかたっていないと書けば、なんとなく時代が分かっていただけるかと思います。
当時はまだ旧制中学の時代で中学校が5年間でした。従って、今でいうインターハイはインターミドルと呼ばれていた時代です。中村先生はインターミドルの800mで優勝、そして早稲田大学に行って中距離で名をはせ、箱根駅伝の1区でも区間賞を獲得し、短い距離から長い距離まで大活躍されました。
当時の日本記録3分56秒を樹立し、1936年のベルリンオリンピックにも出場されました。この時、中村先生は予選落ちするのですが、マラソンに出場した孫基禎選手が優勝、これを見て日本人にはマラソンしかないと思い立ったそうで、後に中距離ランナーとして早稲田大学に入学した瀬古さんをマラソンに転向させています。
ちなみに、30キロを過ぎたところで孫選手が朝鮮の言葉で「水をください」と言った時に、中村先生はちゃんと理解して水を渡したそうです。また、孫選手が優勝して日の丸が掲揚された時には、朝鮮人としてのアイデンティティを持つ孫さんは涙を流したそうです。逆に早稲田大学競争部で指導することになる金哲彦さんは中村先生から韓国国籍に変更してオリンピックを目指すように言われるのですが、逆に日本人としてのアイデンティティを持つ金さんはこれを固辞し、絶縁されてしまいます。
この辺りに歴史の複雑さを感じます。ちなみに私は日本人としての誇りとか「俺は日本人だ」という気持ちはないので、国籍を変えることに全く抵抗はないのですが、あなたはどうでしょうか?
話を中村先生に戻しましょう。ベルリンオリンピックの後、当時の若者たちと同じように先生へと招集され、中国大陸へと渡ります。競技者としてはそこで終わり、戦争が終わってからは日本へ帰って、しばらくはミカン箱に石鹸やたばこなどを置いて売れるものは何でも売ったそうです。この頃から学生選手たちの面倒をよく見て、誰もが自分たちが生きていくだけでも精いっぱいの時代に選手にカレーや白米を食わして、自分たちは顔が映るような雑炊を食べていたそうです。
そんなこんなで、学生たちの練習にも顔を出すようになり、早稲田大学競争部の指導をするようになって箱根駅伝でも優勝します。その後は東急陸上部の監督となり、1964年のオリンピックに選手を8人も送り出しました。しかしながら、一人も決勝に残れず、ワンマン経営者の五島昇とも衝突して、東急陸上部をクビになります。
この中村先生、凄い人あるあるなのですが、性格がかなり強烈であちこちに敵がいて、衝突を繰り返していたそうです。これは筆者の勝手な想像ですが、ワンマン社長の五島さんから「これだけ金をかけてるのに、どうして東京オリンピックでは一人もマスメディアに載る様な成績を出せなかったんだ」と言われて、「あんたは陸上競技のことなんかひとっつもわかっとらんのに、偉そうな口を聞くんじゃない」とでも言い返したのでしょう。
そのあと10年間は陸上競技から離れていたのですが、早稲田大学競争部が弱体化し、とうとう箱根駅伝にも出られなくなりました。この頃になって、OB会から「あいつは毒のある男だが、この弱体しきった早稲田大学競争部を立て直せるのは、劇薬しかない」との声もあがり、反対派も渋々承認する形で早稲田大学競争部の監督に就任します。
そこから見事に早稲田大学競争部の黄金期を築き上げ、瀬古さんらの名選手を育て、SB食品陸上部の監督として、新宅雅也さん、中村孝生さん、佐々木七恵さん、ダグラス・ワキウリさんらの名選手を育て上げ、1986年に渓流釣りの途中にお亡くなりになられました。
そんな選手としても、指導者としても、頂点を極めた中村清先生ですが、中村先生が考える最高の練習とはどのようなものだったのでしょうか?以下著書の『見つける育てる活かす』から引用してみましょう。一人称は軍隊時代の名残で中村となっています。
「さて、瀬古をはじめとします中村学校の選手、或いは私が教えた選手たちが、単純な精神論だけが強くなっていると思っている人は、まだ多いようですが、けっしてそうではございません。
だいたい、精神論のみで勝てるほど世界の陸上界は、甘いものではありません。マイナーな競技種目と違って、ほぼ全世界で行われている陸上競技です。その競技人口たるや、ちょっと想像もつかないほどのものです。体格的にも劣る日本人が、精神だけを鍛えたところで勝てる訳がありません。ちょっと考えただけで分かることです。それでも、雑誌その他を見ますと「中村学校は精神一辺倒」というのが、多いのです。
それでは、中村はいかにして、練習を組み立てているのか・・・。
ひとことでいえば、世界のあらゆるものが、中村の中で集約されている、ということであります。勿論科学的な裏付けも含めたものであります。
私は、いまから55年の昔、十五歳のとき、ソウルにおいて、土屋甲子雄という、当時の1500メートルの日本記録保持者から、陸上競技とはどういうものか、ということを学びました。これは前述したとおりです。
55年前に習ったことは、日本国内で研究され、あるいは外国から伝わった理論、練習法を試行錯誤のうえに組み立てたものでした。土屋先生の教えの中には、私が生まれる以前からのものももちろん含まれていたでありましょう。結局は、現在のトレーニング理論、練習法といいますものも、ずっと昔からのものに、更なる新しいものが、つぎからつぎへと加えられ、試行錯誤が繰り返されつつ、現在あるものに変わってきているのです。
中村は、陸上競技ひとすじの人生の中で、これらについて研究を欠かしたことがございません。現在も、もちろんそうであります。
ですから、たとえば、いま10分間の練習をさせましても、それは、70年も80年も前から流れてきたものが煮詰められて出来ているものです。わずか10分間だからといって、中村は、お茶をにごすようなことはしない。中村の中に集約されているもののなかから組み立てて課題を与えることが出来るようになっているのです。
中村はまた、世界の一線級のいかなる選手の練習法、理論と言ったものもみな知っております。陸上界の情報は、いつでも入手できるように日常から心がけているのであります。相手の情報を集め、分析し、研究する、こういった努力を怠ってはならんと思っているのです。
(中略)
世界の強豪、サラザール、エチオピアのイフタ―、かつてのショーター、ロジャース・・・あるいは、十五歳のときからこのかた学んできたものが、渾然一体となって、中村のなかには集約されているのです。
そういったもので、私は、瀬古はじめ、教え子たちのそれぞれの練習を組み立て、指導しているのです。
精神論だけで勝てる―とんでもございません。一所懸命トレーニングする選手に、それなりのトレーニング法を与えられなかったら、コーチ失格です。レースにおいて戦術を練る、このことも、日ごろの情報、分析、研究が大きくモノをいうのであります。
自分とともに努力する選手に、自信を持って教え、導くこと、これは精神論だけではうまくまいりません。確固とした研究の裏づけがあって、はじめてできることです。ですから中村清、精神論だけで選手を指導しているのではございません。
膨大な情報群から、いかにして単純で精巧な実践法を生み出すか
それこそ、あらゆるものを内包した練習法というものを、複雑ななかからつくりあげてまいります。そしてそれこそが一本化されて、練習というものができあがります。しかし、この練習法というもの、複雑なものの組み合わせから生まれたものといいましても、少しも複雑ではありません。理論がいかに複雑なものであっても、練習法というのは、ひじょうに簡素化、単純化できるものなのであります。
たとえば、もっとも素晴らしい腕時計とはどういうものか。ひじょうに正確に時を刻み続けるものがいいに決まっている。で、なかを開いてみたら、たんなる棒が一本入ってるだけ。それでもちゃんと正確に動き続けている。少しも複雑な構造ではないから、落としても、修理は簡単、バラバラにこわれるおそれがない。ところが、複雑な構造で動く時計は、それが、正確に時を刻んでくれるにしても、いざというとき、やっかいだ。
ひじょうに簡単でありながら、精巧なもの―これが最高です。
中村の練習法と言ったものは、簡単なものであります。試行錯誤と研究を積み重ねて、そういう形になったのであります。
世界から中村のところに入ったどんな情報でも、最終的には、ひじょうに単純な形で、誰でも行うことが出来る練習法に昇華させるのであります」
中村清著『見つける育てる活かす』P188‐194
分かりやすくまとめるなら、古今東西の様々な選手や指導者がやってきた練習を大河のように広く吸収し、最終的にはそれを小川になるまで集約するということです。ただ、誤解の無いように書いておきますと、様々な練習を考察し、たった一つの唯一無二の練習へと回帰されるわけではないということです。
様々な練習から抜き出した要素というものを組み合わせて、今日なら今日、明日なら明日自分がやるべき練習を決めていくということになります。ある程度の時間軸の中で、最適な練習を考え出していくということになります。このあたりが、長距離走、マラソントレーニングの肝の部分になってくると思います。決して、単一のワークアウト、あるいは単一の週間スケジュール、単一の月間スケジュールでは上手くいきません。その時々に応じて、最適なトレーニングプログラムというのは変わっていきます。
そういう意味で言えば、複雑だとは思います。本当に毎日毎日決まったルーティンをこなしていれば良いというほど単純ではありません。ただ、やはり出来るだけ単純化することが重要だとは考えています。これは私自身がこれまでセルフコーチングをしてきた経験からも言えます。
単純化することには大きく分けると3つのメリットがあり、1つ目は余計なことをあれこれ考えずにいくつかのことに集中できるというものです。集中は絞るからこそ集中なのであって、同時に10個も100個も考えているのは集中とは言えません。潜在意識を使って100個のことを並列処理するということは出来ると思いますが、顕在意識ではやはり同時に一つのことにしか集中できません。
2つ目に、比較が容易になります。同じようなパターンを持っていれば、過去との比較が容易となり、そこから何かがおかしくなった時に修正を図りやすくなるという利点があります。最も顕著な例でいえば、同じ流れで同じ練習において同じ感覚で走っているにもかかわらず、著しくペースが遅い、あるいは同じペースで走っているにもかかわらず、著しく主観的強度が高いのであれば、オーバートレーニングの兆候です。それを早めに察知して、修正を図ることが重要です。
3つ目に、体に継続的に同じ刺激をかけることで、適応しやすくなります。いつもいつも同じ刺激をかけていれば、体は刺激に対して不適応を引き起こしやすくなり、また他の刺激をかけないので、総合的な体力の発達が妨げられるというデメリットがある一方で、ある程度同じ刺激を繰り返すことで、継続的に刺激に対して適応していくというのも事実です。
分かりやすく極端な例を出しておくと、毎日毎日1000m10本を10000メートルの自己ベストのペースでやっていれば、いずれは不適応を引き起こし、さらにオーバートレーニングを引き起こし、運が良ければ走力が低下し、普通に行けば遅かれ早かれ故障するでしょう。ですが、週に一回や10日間に一回程度、継続的に同じ刺激をかけていくことで、刺激に対して体が適応しやすいということもまた事実です。
そんな訳で、練習を考えるにあたっては、必要な練習はぎゅっと絞りながらも、同時に必要な練習は複数にならざるを得ないというディレンマを抱えていることになります。この問題を解決すべく、私が長距離走、マラソントレーニングはとりあえずこれさえ組み合わせておけば良いと思う練習をまとめました。「とりあえず、必要最低限の練習方法は確認しておきたい」「出来るだけシンプルにしておきたいんだけど、必要な練習は全て取り入れたい」「練習で無駄な悩みを抱えたくない」という方のために、必要な練習を解説付きでまとめた『エリート市民ランナーの為のトレーニング全集』をご用意いたしました。それでは、下記のURLよりどうぞ!
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