突然ですが、あなたは情報力という言葉を聞いてピンっと来るでしょうか?
ピンっと来る人も来ない人もいて当たり前ですし、まだ情報力という言葉には明確な定義がないとも言えるでしょう。スポーツの世界では南海ホークス、ヤクルトスワローズをリーグ優勝に導き、まだ弱かった楽天イーグルスを2位にまで導いた知将野村克也監督の言葉で言えば、無形の力に該当するものです。
精神力という言葉はよく使われますが、無形の力とは知力と精神力を合わせたものです。なので、無形の力と言っても良いのですが、本記事では情報力という言葉を使わせて頂きたいと思います。ただ単に形がないものの力ということで言えば、重力や光の力、物質と物質が引き合う力(中性子と陽子が引き合う力)なども無形の力に分類されてしまいそうですが、野村監督の定義に従えば無形の力とは物理的な力ではなく、知力、精神力、気力、思考力などを合わせた情報の力なので私としては情報力という言葉の方がしっくりと来ます。
そして、思考や知能が情報力を持つということは昨日のメルマガで解説させて頂いた通りですが、もう少し説明させて頂きますと、例えば私が東京に行きたいと思ったとしましょう。物理的に言えば、炭水化物と脂肪だけ私の体に詰め込んでおけば私は東京に行けますが、実際にはそうではありません。
私に東京に行きたいと思わされる何かがないと私を東京に行かせることは出来ません。
例えば、どうしても甲子園じゃなくて東京ドームで巨人戦が見たいとか、東京マラソンをどうしても走りたいとか、東京でどうしても受けたい講義があるとか、あるいは誰かに東京にいかないと殺すぞと脅されたとか、そういった動機というものが必要になる訳ですが、この動機となるものが情報です。
そして、これも昨日のメルマガのおさらいですが、物理的な力に大小があるように(例えば、同じ車でも時速10㎞で走っている車にひかれるのと時速200㎞で走っている車にひかれるのとでは力の大きさが全く違う)、情報的な力にも大小があります。この情報的な力が物凄く大きいと私みたいにケニアまで行きますとかベルリンまで行きますとか、ニュージーランドまで行きますとか文字通り世界中どこにでも行くようになる訳ですが、普段は別にそこまでの情報的な力を持つものに接する機会がないので、事務所に引きこもっています。多分、走ってなかったら引きこもりと変わらないくらい引きこもっています。
この時に働く情報力というのは実は陸上競技で結果を出す際に必要な力と同じなんです。私も日本一を目指し、そして実際に先輩、同輩、後輩に日本一の人がいた洛南高校陸上競技部にいましたが、全国大会に出たり、日本一になったりしようと思ったら多くの時間と労力を注ぎ込み、同時に多くのものを犠牲にしないと成し遂げることは出来ません。
最近は高校生への半強制的な坊主頭はいかがなものかというような風潮もありますが、そもそもたった三年間髪型一つ犠牲に出来ないような小さな情報力しかもたない人間にはなかなか全国大会に行ったり、日本一にはなれないでしょう。私は別に坊主頭にしたら速くなるとは思っていないです。
ただ、その程度のものはいつでも捨てられるくらいの人間の方が強いということで、色々なものがある中の一つとしてチーム全員できちんと形にして共有しておこうというものが坊主頭なのでしょう。
それはさておき、チームがある程度強くなってくると、偉大な先輩方の背中を見て自分も頑張ればああなれると思いやすいですし、入学してくる時点でそういう志で入ってくる子が多いです。つまり、程度の差こそあれ、入学時点である程度の情報力を持って入部してくるということです。
この情報力は他の力に変換することが可能です。これは位置の力を運動の力に変換することが可能で、逆に運動の力を位置の力に変換することが可能であるのと同じです。横文字にした方が分かりやすい方は位置エネルギーは運動エネルギーに変換可能で、運動エネルギーを位置エネルギーに変換可能というのと同じだと理解して下さい。本記事内では力とエネルギーは同義です。
そして、この時力の保存法則というものが働き、異なる力に変換してもその力の大きさは変わりません。情報力が行動力に変換される場合も同様であり、大きな情報力を持っている人間は大きな行動力を持つので、陸上競技で結果が出やすいのです。
そして、一番大変なのは弱い学校を強くすることです。
何故なら、既存の部員の情報力が非常に低いからです。これは永遠の課題なのですが、よく「うちに入ってくる子たちは強くなりたい子がいないから強くならない」とか「うちに入社してくる若い社員は根性が無いから育たない」などとこぼす指導者や上司が非常に多いのですが、じゃあいつになったら高い志の人が入ってくるんだと私は言いたい訳です。
結局のところ、その組織において指導的立場にある人が大きな情報力を持ち、その力を伝達する手段を持たないことには志の高い部員や社員は生まれないのです。
私の起業家育成の方のサイトもご覧くださっている方は直線説得法とはその情報力の伝達手段だと思って頂ければより理解が深まるでしょう。
私の恩師の中島道雄先生も私の動画やブログにちょくちょくご登場いただく横山隆義先生も本当に0から作り上げてチームをインターハイ総合優勝、つまり日本一に導いておられます。中島先生は部員3人で一番速い子でも5000m18分台というところからスタートし、横山先生は教員採用試験で「日本一になりたいです」と言ったら、教育委員会の人に笑われたそうです。
「私は日本一になりたいです」
というと教育委員会の人は笑いながら「君は全国のレベルを知ってるのかね」と。
「私は日本体育大学出ておりますんで、全国ようしっとります。だけど、同じ高校生が戦う訳だから絶対に日本一になれます。私を採用して下さい。日本一になってみせます」
「ようそんなこと言うなあ」
と教育委員会の人たちは笑っていたそうです。
横山先生の凄いところはそれでも自分が間違っているとは一切思わずに「こがな人らが教育委員会やってる間は鳥取県も大したことないな」と逆に採用する側が間違っていると思われたことです。実際に、横山先生が正しかったです。
そして、中島先生と横山先生の凄いところは自分の専門種目ではない選手を強くすることが出来たことです。中島先生は元々長距離選手、横山先生は確か投擲の選手だったと思いますが、お二方ともトラック&フィールド全種目で強い選手を育て上げておられます。これはひとえに情報力の賜物です。
実際に、洛南高校の大先輩で400mハードルで大活躍された先輩がいらっしゃるのですが、その方も先日のOB会で「一生懸命指導して頂いたけれど、よく考えると技術的なことは一つも教えて頂いていない。全て根性で強くなりました」と話して爆笑をさらっていました。
これは笑い話なので、だいぶ誇張されてはいますが、あながち間違っていない部分も多いです。ただ、一言で根性と言っても、ただただ苦しい練習をやらせれば強くなるかと言うとそういう訳でもないですし、結局最後はどれだけ厳しく指導したところで本人がその気にならないと、前向きにやらないと絶対に結果は出ません。
つまり、横山先生も中島先生も多少の技術的な指導はされたのだろうというのが一点と正しい心の教育をされたというのがもう一点ということです。
以下はあくまでも私が見た中島先生と横山先生ですが、どのような心の教育をして生徒の力を伸ばしていったのかを解説させて頂きます。
先ずは横山先生の方ですが、横山先生の凄いところはとにかく出来ると信じさせることです。迫力のあるお話しで「お前なら日本一になれる」ということを洗脳するのが本当に上手かったです。1500m3分45秒で走ればだいたいインターハイは優勝出来るのですが、それが如何に簡単なことなのかをこんこんと語り続けます。そして、最後にこう締めくくります。
「1500m4分もかかったら芋だけな。1500m4分もかかるなー、みっともない」と。
だけど、実際には1500m3分台ってレベルがかなり上がった今の京都でも年間10人から20人くらいしかいないと思います。10年前であれば、3分台は年間で10人もいなかったように記憶しています。私の高校時代のベストが3分58秒ですが、それで高校ランキングは124位とかでした。単純に47で割ったら各都道府県3人くらいという計算になります。
京都はちょっとレベルが高いのでもうちょっといたと思いますが、それでもそんなもんです。
でも、横山先生の話を聞いていると催眠術にかかったような感じになり、1500m4分もかかったら芋な気がしてくるのです。
この手のことをいくつも仕掛けてきます。更に、細かいことは分からなくても経験がついてきたら、だいたいこの記録を出すには何がどのくらい出来ないとダメだというのが分かってきます。
例えば、1500m3分台を出すには普段から1000m2分30秒台のスピードに慣らしておくことが大切とか、1㎞4分ペースでの10㎞走や20㎞走はこのくらいの余裕をもってやれないといけないとか、そういう風に目標を細かく分解して、それぞれ簡単だと思わせてくれる話術があるのです。
つまり、本当はそれなりの練習をしているのかもしれませんが、今日の練習楽勝だと思わせてくれる話術があり、その話術にのせられると段々出来ることのレベルがあがっていくんです。やっぱり人間多少は思い込みです。肌感覚で言えば、1割か2割くらいは心の持ちようでなんとでもなります。そして、1割増し、2割増しの練習を2年続けたらかなりレベルが上がります。
私も横山先生の話術にのせられて一日40㎞、50㎞、60㎞と走りましたが、不思議とあまり苦しくなかったです。完全に横山先生の情報力がこちらに注入されているので、本当はかなり苦しいはずなのに、ちょっと苦しい程度、なんなら楽しいくらいの感じでやれてしまうのです。
横山先生は生徒を洗脳し、最終的には日本一になれると信じさせ、その為に必要な要素を分解し、それもクリアできると洗脳していく天才でした。この話からもお分かり頂けるように、ただの根性論ではなく、大体このくらいの記録を出すには、あるいは日本一になるような選手はこれがこのくらいで来て、これがこのくらいで来て、これがこのくらい出来ないとダメみたいなことが経験的に分かっている指導者の方でした。
それが分かっていれば、あとはそれが出来ると生徒に信じこませて、実際にやらせてみるんです。
ただ、私ほど細かくは分解して教えてくれません。特に、自分の専門外の種目については、細かい技術論は他の先生にお願いして任せます。そこからがまた凄いのですが、その先生をも洗脳します。
「お前なら必ずこの子を日本一に出来る」と洗脳するのです。洗脳した上で、その選手が強くならないとまたその先生を怒る訳です。
「お前んとこに預けたあの選手、ひとっっつも強くならんけえなあ。どうなっとうだぁ?」と凄みをきかせます。でも、それもよく考えたら「お前なら出来る」ということの裏返しでもある訳です。
そうやって、とにかく先生も選手も洗脳して強くしていくのが横山流と言って良いでしょう。実際に、全盛期はのべ36人をインターハイに出場させたそうです。
次に中島先生ですが、中島先生は横山先生のやり方とは基本路線は同じですが、やや異なります。中島先生の方がもっと土台から固めていく感じです。
例えば、挨拶をきちんとしなさい、ゴミが落ちてたら拾いなさい、謙虚な気持ちを持ちなさい、他人に何かしてもらったら感謝の気持ちを持ち、またそれを伝えなさいといったようなことを日ごろから繰り返し繰り返し教えて下さいます。
言われていることは全部当たり前のことなのですが、じゃあ実践できているかと言うとなかなかそうでもないようなことです。
あなたは公園などですれ違う人や近所の人たちににこやかに挨拶をされているでしょうか?
私は心がけてはいますが、いつもいつも出来ているかと言うとちょっと怪しい部分も大きいというのが一点とにこやかに挨拶をしても、あんまり気持ちの良い挨拶が返ってこないことが多いのも実際です。つまり、皆知ってはいてもなかなか出来ていないということになります。
いちいち言われたらうるさいなあと思うけれど、虚心坦懐に自分を見つめ直してみると意外と出来ていないということが多いことを日ごろから口うるさく教えてやらせるのが中島先生のやり方です。
これを土台としてその上に、負けん気を育んでいきます。負けん気とは何かというと、1回やって駄目なら2回、2回やって駄目なら3回、3回やって駄目なら100回やれという挑戦心です。
そして、その前提にあるのはやっぱり必ず出来るということなんだと思います。ただ、中島先生は「お前なら絶対に出来る」ということは言ってくれません。そうは言わずに、一つ出来る度に「これが出来るようにならないとダメや」ということを言われます。
例えば、最後の最後まで後ろについて優勝した5000mのレースでは「もっと3000mからペースを上げて勝てるようにならないとダメや」と言われますし、逆にラストスパートがかからなかったレースでは「5000mでも10000mでもハーフマラソンでもラスト300mはいつでも45秒で走れないとダメや」と言われますし、フルマラソンで2時間13分で走っても「2時間10分も切れないようではダメや」と言われます。
このように次々と「○○も出来ないようではダメや」という形で新しい課題を頂いていく訳です。これも「やれば出来る」ということの裏返しであり、横山先生と同じで最終的にこれをやりたいのであれば、次の課題としてこれをやる必要があるというのが経験的に見えていた方なのだと思います。
ただ、一つ大きな違いをあげるのであれば、横山先生は常に日本一からの逆算思考であったのに対し、中島先生は土台を先に作ってその上に積み上げられるところまで積み上げていくという違いがあったように私自身は感じます。これは中島先生が日本一を見ていなかったという意味でもないですし、横山先生が土台をおろそかにされていたという意味でもないです。敢えて、両者を比べるのであればそういう違いが挙げられるのではないかということです。
具体的な言葉で言えば、横山先生はよく「山はてっぺんから見た方が分かりやすい」とおっしゃっていました。山のふもとから頂きを見上げるとその方向からしか見えませんし、上の方がどうなっているのかはよく分かりません。一方で、山の頂上から下を見下ろすと全方位がよく見えますし、色々な道がよく見えます。
陸上競技も同じで日本一から逆算して考えた方が分かりやすいということです。
中島先生はそういう感じの先生ではなかったです。もちろん、中島先生なりに全国高校駅伝やインターハイから逆算して練習を組んだりはされていたと思いますが、それよりも今目の前の当たり前のことをやるということに重きを置かれていた印象です。でも、それも将来的なことも見据えた上での話です。
中島先生は姑息な手段や考え方をとにかく嫌います。姑息というのはその場しのぎのという意味ですが、その場だけしのげれば良いというような場当たり的な考え方を物凄く嫌い、どんな時でも平常心で、いつも通りの自分で通用する人間になりなさいというような教え方をされる方でした。
そういう意味では、横山先生は姑息なという言葉は使われていませんでしたが、小賢しさは嫌う方でした。
そして、両者の共通点を抜き出すのであれば「理屈をこねずにとにかくやれ」というところに繋がるような気がします。結局のところ、「姑息な考え」であれ「小賢しい考え」であれ、やらない理由を考える時に用いられることが多いのではないでしょうか。中島先生も横山先生もやりもしないで理屈だけこねることを一番嫌っていたように感じます。
もう少し視点を変えると実践を伴わないような考え方に意味はないということであり、私なりの言葉で言えば、行動の動機に繋がらないような情報をいくらもっていたってこの現実世界の結果を動かすだけの力を持たないということです。
例えば私に言わせれば、やる気はあるけど、なかなかできないというのはやる気がないのと同じです。今すぐ5000m13分台で走れるかと言うと、それはその人の実力にもよるでしょう。いくら努力しても今すぐ出来ないこともあります。
でも、朝5時に起きて走るというようなことは健康であれば、誰でも出来ることです。ところが「やる気はあるけど、なかなか出来ない」というようなことを言い、更にはあれやこれやと姑息な理論や小賢しい理屈をこねる人がいる訳です。
これは中島先生の言葉で言えば「そんな姑息な考えではダメや」ということになり、横山先生の言葉で言えば「やってからいえっちゃあなあ。やりもせんくせにごちゃごちゃいうやつがおるけえなあ」ということになり、私の言葉で言えば「実際の行動に繋がらないようなやる気や理論や思考は持っていても意味がない」ということになります。
本記事内での用語を使えば「実際の行動力を引き起こすだけの力を持たないのは情報力が不足しているからである」ということになります。
他の中島先生と横山先生の共通点を挙げると私が高校を卒業して12年もたつのに、どちらの教えも私の心にしっかりと残っていること、陸上競技を離れても応用が利く考え方であるということです。私は陸上競技からはっきりと離れた訳ではありませんが、陸上競技以外でも通用する考え方であることは保証します。
歴史的に見た時に強い情報力を使った例
歴史的に見ても情報力を駆使した例はいくらでもありますが、ほんの一例としてイエス・キリストという人を挙げたいと思います。イエス・キリストはキリスト教の始祖ということでよく知られていると思いますが、別にキリスト自体はキリスト教という教団を作っていません。宗教的にはキリストの死後にキリスト教という形で広まったものです。
では、キリストという人自身は何をしていたのかということですが、基本的には弱者保護、弱者救済をやっていたと思ってください。歴史は基本的に弱肉強食です。戦争をして勝った方が負けた方を完全に支配し、奴隷にするというのが歴史です。奴隷という用語が使われていなかったとしても、奈良時代の庶民の暮らしなんかを見ていると奴隷みたいなもんです。
じゃあ、なんでそれに歯向かわないのかと言うと武力的に勝ち目がないから歯向かわないのであって、武力的にいけると思ったら革命が起きます。実際に、古今東西ありとあらゆる地域で武力革命というのは起きています。共産主義革命もそうですし、戊辰戦争もそうです。あるいは戦争でよその領土を奪って、現地に住む人たちを奴隷にするというのはかなり近代まで行われており、第二次世界大戦前のアジアで言えば、独立していたのは日本とタイだけでした。
タイは各欧米諸国の武力的緩衝地帯として設けられた場所であり、本当の意味で独立していたのは日本だけです。それが良いか悪いかという価値判断はいったんおいておき、歴史を見れば弱肉強食的な武力による領土の奪い合い及び人権の奪い合い(勝った方が負けた方を心的にも物質的にも支配する)の連続です。
では、そんな中で武力で劣る弱者が勝つにはどうすれば良いのでしょうか?
逆説的ですが、武力で抵抗しないというのが最大の戦術なのです。武力では負けるので、そもそも武力で相手を服従させるなんて卑怯だよね、まともな人間のやることじゃないよねという理屈に持っていった訳です。
キリストの弱者保護の考えはもちろん女性にも及びました。当時女性は財産権がなかったので、歳をとってから離婚されると路頭に迷うケースが多かったのです。だから、キリストは一回結婚したら絶対に離婚をするなと教えたのです。
なので、本当は神の前で永遠の愛を誓ったから別れてはいけないみたいなものは後付けであり、本当は財産権がない場合、簡単に女性を捨てたのではあまりに可哀そうだという理屈があった訳です。
そうすると、わからずやの弟子がある日キリストにこう言いました。
「一生一人の女性に縛られるくらいなら結婚なんかしない方がマシではないですか」と。
するとキリストは「その通り。結婚せずにいられるのであれば結婚せずにいなさい」と答えました。ただ、そうすると子孫が残らないのでキリスト教の存続に関わります。
そこで、確かパウロという人だったと思いますが(間違っていたらすみません)、正式にキリスト教徒も結婚しても良い、ただし一生愛し合いなさいということでキリストの死後に正式な声明を出したのです。
この時何故イスラム教のように一夫多妻を認めなかったのかは謎です。夫のいない女性が困窮するのであれば、多くの妻を養っている男が偉いという風潮にしてしまえば、お金持ちがたくさんの妻をめとることになり、困窮する女性が減ったはずです。
例えば、肉体関係が無くても良いから未亡人の60歳女性を形式上は妻として養えば社会からの尊敬を得るという風にしてしまえば、弱者救済としてはもっと良かっただろうし、キリスト教も仏教も脅すことで信者を獲得してきたという事実は少なからずある訳ですから「お金持ちのくせに困窮している婦女子を養わない奴は地獄に落ちる」みたいな教義にしてしまえば、もっと良かっただろうにと思います。
女性の方は女性の財産権を認めろと主張するかもしれませんが、当時は現在のように空調のきいた部屋でパソコンを触るような仕事はありません。農業、林業、漁業、畜産業、土木業、国防、どれをとっても重労働なので、女性の財産権を認めたところで女性が男性と同じような形で労働をして社会に価値を提供することはかなり非現実的でしかありません。
そのようにして、武力的な闘争は一切せず、様々な言論によって仲間を集めていき、強者に立ち向かっていったのがキリストという人です。また、記録によるとどうも気功も使えたようです。
ですから、言語と非言語の両方を駆使して情報力を発揮し、同志を集めていき大きな勢力を作ることで、武力的に強い人達に勝負を挑んだ人と言えます。
最終的には処刑されてしまいますが、その後キリスト教という形で彼の教えは形を変えながらも世界に広がり、一大勢力となりました。
また、ある意味では処刑されたこと自体も弱者が取りうる最高の抵抗の仕方の一つなのです。強者が弱者を支配するのは基本的には弱者を奴隷にしたいからです。だから、死なれたら意味がないのです。
日本で起こった百姓一揆や宗教一揆も死ぬ覚悟での最後の抵抗という例も少なからずあったことでしょう。あるいは負けた方の武家一家が集団自殺したり、大東亜戦争でも万歳突撃をしたり、あるいはソ連が日ソ中立条約を破って満州に侵攻してきた際には多くの日本人女性があまりにもひどいやり方で強姦されましたが、そういった場合に日本人女性たちが集団自殺したのも(例えば日満パルプ事件)、弱者なりの最後の抵抗だったのでしょう。死んだらなんにもならないと言われればそれはその通りですが、死ぬことで強者の思惑通りにならなくなるのもまた事実なのです。
集団自殺的な行為は武力で起こるものが取りうる非常に有効な手段の一つであり、どうせ死ぬのであれば、最後に一矢報いたいと思えば、歴史の中で度々起こってきた一揆や万歳突撃というものの動機が理解出来るかと思います。特別攻撃隊もその一種と考えると良いでしょう。
実際にキリストも死ぬことで殉教という一つの意味が与えられ、それが現在のキリスト教を形成する大きな情報力となったことは否定できないでしょう。あれで最後の最後まで逃げ回って安全なところで天寿を全うしたらここまでキリスト教が広まったかどうかは分かりません。
逆に、GHQが神道を解体したり、お隣の国が靖国神社参拝に反対するのもそういった情報力の大きさを歴史に学んでいるからこそでしょう。彼らは非常に賢いと思います。歴史をよく勉強しています。
天皇制の解体も彼らがどこまで理解していたかは分かりませんが、日本を弱くする上では非常に有効な策であったと言えます。先ほど歴史は基本的には弱肉強食の世界であり、武力的に強い方が武力的に弱い方を常に心身ともに支配してきたと書きましたが、そういったことが出来るのは相手が異民族や異教徒である、つまり同じ人間ではないという前提があるからです。
何故か近代史ではアドルフ・ヒトラー1人が極悪人みたいな感じになっていますが、白人の考え方は基本的に異民族や異教徒には何をしても良い、だって我々と同じ人間ではないからという考え方です。ヒトラーだけが特殊な考え方をしていた訳ではありません。一つだけ特異的な点があるとすれば、収容の仕方から死ぬまで働かせた後の遺体の処理方法まで非常に組織立てられ、秩序立てられたシステムを考案したということでしょう。
ある民族を征服し、自分の民族の利益のために死ぬまで働かせるという考え方は歴史的に言えば、ヒトラーの特異的な考え方ではなく、白人社会にとっては非常に普通の考え方です。
一方で、日本史の場合は戦争があっても比較的残虐行為は少なく、戦闘が一度おさまったあとは新しい領主(つまり勝者)がその土地をよく治めることが求められました。昔の日本では負けた側についても、切腹しても良いのは殿様とその家族と殿様にある程度近い人までというのが法律で決まっていました。その理由は負けた後も領主が変わるだけで、その土地をよく治める人が必要だからです。つまり、貴重な人材を無駄に失わせないようにしていたのです。
ですから、異民族や異教徒を徹底的に滅ぼして奴隷にするという考え方とは異なるのです。「敵に塩を送る」という言葉がありますが、あれも敵に塩を送った訳ではありません。洛南高校陸上競技部と西脇工業陸上競技部が戦う際に、別に京都市民と西脇市民は敵ではないというのと同じ理屈です。
戦は武士同士が戦うものであり、勝った後には相手の領地を治めないといけないので、敵側の地域の農民が困っていたら贈り物をしても、それは将来の味方に塩を送ったみたいな感じです。
現代風に言えば、企業と企業が戦って、勝った方が相手の会社を吸収する時に敵方の会社の社員は将来自分の部下になる人たちだから心証を良くしておいた方が良いというのと同じ構図です。ですから、別に敵に塩を送った訳ではないのです。
そして、何故日本史はそのようになっているのかというとかなり早い段階から万世一系の大君、つまり天皇陛下に使える忠臣たちの集まりという共通認識があるからです。日本人とは天皇陛下に仕える人たちのことなのです。だから、欧米のようにルールも道義もへったくれもない中での民族興亡戦ではなく、一定のルールの下で行われる陣取り合戦なのです。
ですから、仮に天下をとったとしてもルールを守らない人は罰せられます。
1人目に都を攻め落とした後に都で乱暴狼藉を働いた木曽義仲率いる木曽源氏、2人目に民家に火を放つなど非戦闘員に対する非人道的行為を行った源義経、3人目に一向一揆や宗教一揆を鎮圧する際に、降伏してきた婦女子を皆殺しにした織田信長です。
全員天下を取った後すぐに殺されています。本能寺の変に関しては昔から朝廷陰謀説があり、朝廷陰謀説であると明智光秀の最期があっけなく大山崎で農民に殺されたとするのも理解できるようになります。
いくら、逃走中とは言え、武装して護衛の者もいる状態で光秀が農民に負けるでしょうか?
これは草野球のチームが読売ジャイアンツに勝ったというようなものです。また、その農民の名前さえ残っていないのも不可解です。記録に残っていないのは何故でしょうか?
歴史を見れば、こういう例は他にもあります。リンカーン、ガーフィールド、ケネディという三人のアメリカ大統領が暗殺され、リンカーン大統領暗殺とケネディ大統領暗殺に関してはどう考えても単独犯では無理なのに、1人の頭がおかしい犯人のせいにされ、そしてその犯人はすぐに殺されて口封じされています。
ガーフィールド大統領暗殺事件に関しては、犯人はやはり頭がおかしい男とみなされ、裁判ではその法的責任(是非弁別能力の有無を有していたか否か)が議論されましたが、最後は処刑されました。
では、この3人の大統領の共通点は何か?
アメリカの中央銀行を否定したということです。
表の支配者も真の支配者に逆らえば、暗殺されるのが米国史であり、暗殺した犯人は口封じのために殺され真相はうやむやになってしまうのです。
このように考えると実は裏切られたのは信長ではなく、光秀の方であったのではないかという説が出てきます。つまり、天皇陛下が「信長野蛮すぎるからなんとかしろ」と考えたか、天皇陛下にそのようなご決断を下させないために先に朝廷の誰かが動いたのではないかと考えると自然に解けるのです。
話を戻すと、日本には万世一系の大君に仕える人たちであるという共通認識があったがために、争いごとがあっても外国のようには強者が弱者を一方的に支配するというようにはならず(とは言え、支配階級や被支配階級が存在しない訳ではない)、対外戦争の場合には諸外国が震え上がるほどの挙国一致を見せることが出来た、つまりこれも情報力なのです。
ですので、GHQが天皇陛下に人間宣言をさせて、天皇制を解体したのは非常に日本史の歴史をよく勉強していると思います。
ただ、当たり前ですが自分の命を捨てるという覚悟を決めるにはかなりの大きな力が必要となります。その力は他人に殺される場合には物理的な力になりますが、自殺の場合、あるいは自殺的な行為の場合は情報力になります。
このように、弱小高校を日本一にするのも、たった一人の人間が世界中に大きな影響力を及ぼす一大組織を構築するのも、日本という国を一つの共同体として統治するのも全ては情報力なのです。もしくは武力を使うかのどちらかですが、近代戦に関しては武力もかなりの部分が情報になってきているので、それすらも情報が大半を占めるようになってきました。
昔のように人手と簡単な武器をたくさん集めることが出来たら勝てるという時代ではなくなっていますし、情報の伝達手段の進歩によって人手を集めること自体がどれだけ大きな情報力(大義名分や高貴な主義主張、給料、人種観、民族観、国家観、宗教観などなど)を有するかに依存するようにもなってきました。
あなたの成長と情報力
今回はここまで組織と一人の人間が持つ情報力の大きさについて解説をしてきましたが、実はこれは自分が自分を成長させる場合においても同じなのです。というより、最終的には自分を成長させることが出来るのは自分だけです。
例えば、横山先生の話を聞いて一発で洗脳された私みたいな単細胞生物もいれば、何回聞いても洗脳されない人もいる訳です。
ですから、最終的にはその人の思考であり、また大人になればもうそんな風に自分を正しい場所や高い場所に導いてくれる人はいなくなるのが実際のところです。
だからこそ、きちんと自分で自分を導く方法を知っておく必要があるのです。そのやり方には色々あるでしょうけれども、大きく分ければ言語を使うやり方と言語を使わないやり方があります。
言語を使わないやり方は例えば、昔の職人さんが技術を覚えていく時のように、間違ってたら怒られる、もしくは殴られる、合ってたら何も言われないか、うなづいてもらえるみたいなやり方でものを覚えていくのが言語を使わないやり方です。それか、気功を使うかです。どちらかしかありません。このやり方は日々一緒に時を過ごさないといけないという限界が存在します。
もう一つのやり方は、言語で心や思考、認知のメカニズムとこの物理空間に生じる現象(レースの結果、試験の合否、収入、仕事の成否、恋愛の成就等々)の関係性を理解して、自分で自分を正しい方向に導くやり方を学ぶことです。
横山先生も中島先生ももちろん両方使われていましたが、あれは話し方(声色や口調)や表情、身振り手振り、体罰なども組み合わせながらの言語での洗脳なので、言語と非言語を組み合わせています。また私の場合、大半が私よりも年上である弊社のお客様をお導きさせて頂くということは学校の先生と同じやり方では出来ません。
大人の方の場合、特に私よりも歳上の方を教えさせて頂く場合には、言語による解説が一番です。理論的に説明してご納得いただければ、それが一番腑に落ちるでしょう。
そんな訳で、どうすれば大きな情報力を作り上げてそれを自分の成果に繋げていくのかという方法論を「池上秀志の夢を叶える講座2024年版」という名目で2024年12月16日月曜日までの限定で公開させて頂きます。
3時間の本講義と1時間の補足説明、PDF50ページ分の参考文献から構成されます。受講費はたった5000円です。受講をご希望される方は今すぐこちらをクリックして無料記事より詳細をご確認ください。
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