突然ですが、あなたは最新のトレーニング理論や最先端のトレーニング理論を学びたいと思われているでしょうか?
もしも、思われているのであれば、何故最先端のトレーニング理論や最新のトレーニング理論を学びたいのでしょうか?
おそらくかえってくる答えの大半は「そちらの方が理に適っているから」「そちらの方が効率が良いから」「そちらの方が合理的だから」ということだと思います。
ですが、本当に最先端や最新であることが効率の良さを保証するのでしょうか?
実は二つの意味でそうではありません。
先ず第一に、最新の理論とか最先端の理論と言われているものの大半は最新でも最先端でもありません。
ほんの一例を挙げると私が高校生の頃(2009年ごろ)に「最近の研究では乳酸はエネルギーとして使われることが分かっている」などと言われ出しましたが、乳酸がピルビン酸に再変換された後、クエン酸回路(ATP回路またの名をクレブス回路)でエネルギーとして再利用されるということは少なくとも1980年代のランナーズに書かれており、ということは学界レベルではそれよりももっと前の段階で分かっていたということです。
じゃあ何故2009年頃に「最近の研究では乳酸がエネルギーとして使われることが分かってきた」ということが分かって来たかと言うと東京大学教授の八田英雄さんという権威とマスメディアがそう言っていたからです。
だいたい、世の中間違っていることでも権威者やマスメディアが言えばそれが正しいことになるものなのです。
そして、第二に必ずしも最先端のトレーニング理論や最新のトレーニング理論の方が効率が良いとは限りません。その理由は単純で、もしもそれが本当に最先端の理論や最新の理論なのであれば、それは所詮は理論に過ぎないからです。つまり、歴史の過程で検証が為されていない訳です。
例えば、歴史を紐解けば原子爆弾というのは当時最先端の武器であった訳ですが、最先端であったが故にまだまだどういうものかが分かっておらず、実は日本人が被ばくする前に、アメリカ国内のニューメキシコ州で行われた原爆実験では周辺住民が放射線の被害を受けて、早々に病死する人が多発しました。
他の例を出せば、アンフェタミンを主な有効成分とした覚醒剤も当時はまだその効果がよく分かっておらず、普通に市販されていました。商品名で有名なものを挙げればヒロポンがそれに該当します。当時は徐倦剤とか除倦薬と呼ばれていました。アンフェタミンはその後頭痛薬などにも用いられていましたが、それを服用すると興奮して痛覚閾値が非常に上がり、苦しさを感じないので一定の割合で熱中症などでなくなるスポーツ選手が出ました。
今はそういった歴史の検証を経て、禁止薬物リストに掲載されています。つまり、ドーピングに該当します。
もう一例くらい挙げておくとコカ・コーラもそうです。現在英語圏ではコカ・コーラという名称は使われずCoke、敢えて日本語発音で書けばコークという音が最も近いです。しかし昔はコカインとコーラの実から抽出された麻薬成分を入れていた清涼飲料水だったのです。
コカ・コーラが発売された当初は産業革命の始まった頃であり、労働者たちの肉体疲労や娯楽というものが問題となっていました。そういった中で、美味しくて体にも良いということでコカ・コーラが発売されたのですが、覚醒剤と同じで疲労を感じにくくなるだけで本当に体に良い訳ではなく、長期の使用には色々な弊害が生じました。
やがて、コカインとコーラの実から抽出したエキスを使用することはやめ、カフェインを代わりの物質として使用し始め、その際にマイナスイメージを払しょくするために名称をコークに変えたのです。
このように、実は歴史の検証を経た方が確実であることというのは多々ありますし、逆に最先端や最新の理論というものはその時点ではまだ何がなんだかわかっていないことも多いのです。
そして、それは当然マラソントレーニングについても同じです。NHKが踵接地の方が持久力がついて疲れにくいという番組を流した3年後にはもうつま先接地の方が速く走れるという番組を作り、更にはフォアフットという言葉まで定着させたその二枚舌には私も腰を抜かしましたが、ユーチューブやSNSにも検証を得ないままに一部の成功パターンが正しいとか誰が言いだしたかよく分からない練習方法が市民権を得ていたりしているという現状があります。
それはそれで効果があるのであれば、それで良いです。ですが、ウェルビーイングオンラインスクールの受講生様がよく口にするのが「SNSとか見てると自分よりも凄い練習をしている人はたくさんいるけれど、自分の方が結果を出すことが出来ました」ということです。
では、それは何故なのかということですが、それは歴史から学んでいるからです。何故人は歴史を学ぶのか?
面白いからというのが答えの一つだと思いますが、もう一つは実用的だからです。人間の体というのはおそらくは1万年くらいほとんど変わっていないでしょうし、思考や心のメカニズムというのもほとんど変わっていません。ということは、過去に学んだことはそのまま現代にも応用できるからこそ学ぶのです。
一説には土トラックがタータントラックになり、普通の靴がスパイクシューズになり、昔は地面に穴を掘っていたのが(野球の投手がマウンドに自分の穴を掘るのと同じ)スターティングブロックに変わるという技術革新があっただけで、スプリンターの実質的な記録はほとんど変わらないという説があります。
マラソンの場合は路面やシューズだけではなく、トレーニングの方もかなり進化していると私は思っていますが、そのトレーニングの進化もつぶさにみていくと、何をやるべきではなく、何をやるべきなのかということが分かってきます。そんな訳で、ざっとマラソントレーニングの歴史を振り返ってみたいと思います。
マラソンの歴史
そもそも近代マラソンが始まったのは1896年の第一回オリンピックだったので、かなり歴史がさかのぼります。日本で言えば、江戸時代が終わってから30年くらいしか経っておらず、歴史的な事柄で言えば日清戦争が1894年から1895年なのでちょうどそのくらいです。
森鴎外の舞姫が1890年発行、夏目漱石の坊ちゃんが1906年の発行と書くとなんとなくイメージがつくでしょうか?
まだペニシリンが出来る前で性感染症は今よりもずっと死ぬ確率が高く、結核は不治の病で、脚気の原因はよく分からず栄養不良説と細菌説の両方が戦い、自動車はもちろんまだないと書けばなんとなくの科学文明の発展度合いもお分かり頂けるでしょうか?
この時代になかったのは吾輩の名前だけではなく、今日あるありとあらゆる科学技術や知識、理論がなかったのです。
そんな感じの時代なので、まだまだ戦前のオリンピックではトレーニング論らしいトレーニング論というのはなく、アマチュアの中の体力自慢が活躍していたというそういう時代です。
それでも、一応長距離走、マラソン全般のレベルは上がっていたようなのですが、戦前のトレーニングの記録はあまり残っていないというのが実際のところではあります。ですが、全く記録が残っていないという訳ではないので、ざっとマラソントレーニングの歴史を振り返ってみましょう。
第一章 ハネス・コールマイネン
戦前はフィンランドやノルウェーなどの北欧勢が強かったのですが、その初期ともいえるのが、フィンランドのコールマイネンです。1912年のストックホルムオリンピックでは、5000m14分36秒、10000m31分20秒のタイムで金メダルを獲得すると、その8年後のアントワープオリンピックでは2時間32分35秒というタイムで優勝しました。
残念ながら、彼の練習記録が全く残っておらず、どのような練習をしていたかは今となっては神のみぞ知るところになってしまいましたが、当時の北欧勢の強さを支えていた秘密はファルトレクにあると言われ、それが第二次世界大戦後にインターバルトレーニングへと改良されていきました。
今の我々からすると、インターバルトレーニングなんて当たり前中の当たり前です。私なんて初めてインターバルトレーニング(レペティショントレーニング)に取り組んだのは小学校6年生の時です。陸上競技を始めた時からインターバルトレーニングを知っていました。
でも、少し想像してみてほしいのですが、まだインターバルトレーニングが無い時代に疾走とジョギングを繰り返すという練習方法を思いつくでしょうか?
思い返してみると、小学校の頃は駅伝が1.2キロだからひたすら1.2キロを全力で走ったり、レースが1.2キロだからそれよりも長い距離を走っていれば、速く走れるだろうと2.4キロや3.6キロを走ったり、そんな練習しかしていませんでした。一人でやっていたらインターバルトレーニングという練習を思いついたかどうか分かりません。
早くから北欧で速く走るのとゆっくり走るという練習が取り入れられていた理由の一つは、子供の遊びでこういうのがあるからだそうです。みんなであの木までかけっこ、そしてゆっくり、また息が整うと今度はあの坂を駆け上がるまで競争だという遊びをやっていたのがファルトレクの原型だそうです。それをトレーニングとしてより真剣にやったのが、戦前の北欧勢です。
第二章 クラレンス・ド・マール
名前から推察するにフランス系の方でしょうか。そのあたり私には分かりませんが、一つ確実に言えることは、彼こそがボストンマラソンを有名にした男だということです。彼はボストンマラソンで7回優勝し、最後は41歳で優勝しています。オリンピックには1912年、1924年、1928年に出場しています。
時代で言えば、第一次世界大戦の少し前から、世界恐慌の少し前くらい、スポーツで言えば、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグと同時期に活躍しています。
彼の最大酸素摂取量は体重1キロ当たり1分間に76ミリリットルにも達したそうですが、これはダブルの意味で驚きです。
一つ目は、私がレースにピークを持っていく時と同じ最大酸素摂取量におよそ100年前に到達していたこと、二つ目はこの時代に既に最大酸素摂取量を計測する機械とその概念があったことです。
知識がつけばつくほど、ネット上で「最新の」「最先端の」と言われていることはちっとも最新でも最先端でもないことが判明することはよくあることです。更に凄いことは乳酸性閾値やランニングエコノミーまで計測し、非常に優れた有酸素性プロフィールを彼が有していたことが記録に残されていることです。
ここまでの記録が残っていながら、残念なことに彼の練習は現在あまり記録に残っていません。およそ週に160キロ走り、週に一回は32キロのロングランと16キロのテンポ走に取り組んでいたことが判明していますが、現在の基準から言っても彼のトレーニングプロトコルは非常に理に適ったものです。
では、一体どのくらい速く走っていたのでしょうか?
私が知る限り、1922年のボストンマラソンをコースレコードの2時間18分10秒で優勝したのが彼の自己ベストです。この記録が100年前に出されたことを考えると、素晴らしい記録だと言わざるをえないでしょう。
ちなみにですが、彼は二つの意味で、医学の常識を裏切った男です。実は彼は心臓に心雑音を持っていて、医者に死ぬから走るのはやめろと再三忠告され、時にはこのままでは本気で死ぬと思った医者がスタートラインまで、「走っても良いけど、疲れてきたら途中棄権するように」とわざわざ忠告しに来たほどです。そして、彼はそのレースで優勝しました。
二つ目に、彼の最大酸素摂取量から言えば、彼のマラソンの記録は少し遅いと言わざるをえません。ですが、これもどうでしょう。私は足袋で走ったことがあるのですが、レースではとても使えるものではありません。一体当時のシューズとはどのようなものだったのでしょうか?
コースはすでに舗装されていたのでしょうか?
当然、ペースメーカーも競い合う相手もいません。もしも、現代のシューズで、ペースメーカーを付けていたら?
少なくともあと3分は速くなるでしょう。
第三章 パーヴォ・ヌルミ
戦前最大のヒーローと言えば、やはりパーヴォ・ヌルミでしょう。彼は生涯を通してマラソン3回を含む長距離走で6個のメダルをオリンピックで獲得し、世界記録を19回も更新しました。私はあまり北欧のことは知りませんが、2017年の福岡国際マラソンで優勝したソンドレ選手と一緒にご飯を食べたときに彼の故郷の話になりました。
彼はノルウェーの出身で、北緯60度くらいの所の生まれです。北海道がだいたい北緯40度から45度くらいで日露戦争で領土の半分を手に入れた樺太(サハリン)でも北緯50 度の所で分割しています。
それより更に北側だと言えば、何となくお分かりいただけるでしょうか?
ソンドレ選手の故郷では、真冬は日照時間が5時間くらいしかなかったそうです。10時に陽が昇るとすると、午後3時には暗くなるわけですから、やってられないですね。フィンランドも緯度はほとんど同じで、冬場はヌルミ選手もあまり練習が出来なかったそうです。彼は常に量的にも質的にも必要な練習に達しておらず、メインの練習期は常に夏だったと述懐しています。
ですが、これも神のみぞ知るところでしょう。彼はフィンランドの気候のお陰で上手くトレーニングの期分けがなされました。それが長きにわたってメインのレースで結果を出し続けた秘訣かもしれません。
ヌルミ選手は「筋肉は所詮ゴムの固まりだ。私が速く走れるのは強い意志の力だ」と語っていました。確かナチスドイツのプロパガンダ映画「意志の勝利」の上映開始が1936年だったので、それよりもおよそ10年早く「意志の勝利」を唱えたのがヌルミ選手です。
ですが、そんな彼の言葉とは裏腹にトレーニング史を紐解いていけば、彼の勝利を支えたのはファルトレクという革新的なトレーニング方法であります。
第四項 中村清
日本では1920年代にはすでに箱根駅伝はあったようで、一部の層にはかなり人気のスポーツであったようです。この頃はまだプロ野球もなく、スポーツそのものがあまりなかったので、箱根駅伝と東京六大学野球が日本のスポーツの花形であったようです。
中村清先生は800mや1500mのランナーで、マラソン経験はありませんが、日本のマラソン史においては指導者中村清抜きには語れません。実はマラソンのトレーニング史を語る上で、のちのち有機的につながっていくので、ついでに解説しておきましょう。
中村先生は旧制中学の日本一を決める大会インターミドル(現在のインターハイ)に800mで優勝すると、早稲田大学に進学します。生まれは漢城(ソウル)で現在の韓国です。当時は日本の占領地でした。
今となってはすっかり韓国、北朝鮮は別の国ですが、当時は内地に7つしかない帝国大学が朝鮮にもあり、台湾、満州、沖縄、北海道、パラオなどと並んでごく普通の日本の外地であり、九州とか東北から東京に出てくるみたいな感じで、朝鮮から東京に出てきて早稲田に入学された方です。
私がいくら調べても当時の中村先生の練習は出てきません。著書も隅から隅まで拝読しましたが、当時の練習内容は出てきません。「長距離部員が続々と帰っていく中で、中村だけは最後まで走っていた」とか「靴も買えない極貧の中で足の裏から血を流しながら走っていた」などの話が断片的に残っているだけです。
ただ、一つだけ分かっていることは、足の裏から血を流しながら走っている当時中学生だった中村少年に元日本記録保持者の土屋甲子雄という人が指導するようになってから、記録が飛躍的に伸びたそうです。
うちのティラノもそうですが、やはり気持ちだけ強くても記録は伸びるものではなく、専門的な指導を受けてから飛躍的に記録が伸びたようです。そして、転機が訪れるのは1936年のベルリンオリンピックです。開会式では、アドルフ・ヒトラーもいたそうで、黒人には目もくれなかったそうです。
実は優生思想というのは近代ヨーロッパの人にとっては、非常に一般的な考え方で、私の大学時代の恩師イマヌエル・カント教授も「アフリカやアジアの土人たちは理性が決して開化することのない存在者で、ヨーロッパ人の支配をもってして初めて理性的存在者としての生活を享受することが可能になる、そして、日本人のような一部の民族は自ら理性を開化することは出来ないが、ヨーロッパ人の教化をもってして理性を開化させることが出来る」と述べていました。
このベルリンオリンピックで中村先生は二つの知見を持って帰りました。一つは、日本記録保持者の自分は予選で落ちたのに対し、同じ釜の飯を食った無名のソン・ギジョン選手が金メダルを獲得、南選手が銅メダルを獲得したいことです。
これより日本人はマラソンしかないとの見解にいたり、のちに中距離ランナーとして名をはせた瀬古さんを早い段階でマラソンに転向させています。このベルリンオリンピックでの経験がなければ、レジェンド瀬古さんが誕生したかどうかは分かりません。
ちなみにこの大会でも、レース終盤にソン選手が「水をください」と朝鮮語でいったのを漢城生まれの中村先生は理解し、水を渡したそうです。今なら失格になるところですが、当時はそんなこともOKの牧歌的な時代でした。
もう一つは、徹底的にドイツ国家社会労働党(通称ナチ党)のプロパガンダに利用されたベルリンオリンピックを経験し、スポーツとは政治に利用されるものであるということを骨の髄まで理解した中村先生は1980年のソ連アフガニスタン侵攻を受けてボイコットが決定されたモスクワオリンピックの際も淡々とされていました。大泣きに泣いた柔道の山下選手とは対照的でした。一種の醒めた視線がその年の福岡国際マラソンの優勝につながったと言えば言いすぎでしょうか。オリンピックが全てだと思っていれば、立て直しは容易ではなかったでしょう。
第五章 山田敬蔵
なぜか有名ではないのですが、日本人で二人目にボストンマラソンで優勝する快挙を遂げたのが、山田敬蔵さんです。1953年、サンフランシスコ条約に調印された翌年、形式上の日本の主権が回復されたその次の年(条約の英文を読めば、実はそうでもないということが分かりますが)、戦争で負けた日本がマラソンで米国を負かすという痛快な出来事を引き起こしたのが、山田さんです。
山田さんは15歳の時に、満蒙開拓青少年義勇軍に志願し、満州にわたると満州で走り込みを行って、持久力に自信をつけたのとのことです。私はいつも思うことですが、マラソンをあまりにも独立してとらえている人が多すぎるということです。
マラソンと言えば、テクニカルな小手先の情報を求めている人があまりにも多いのですが、マラソンは人生と乖離したものではありません。中村先生も山田さんもそのダイナミックな人生の中で身に付けた何かが記録の向上につながったに決まっているのであります。
ちなみに1953年のボストンマラソンで2時間18分51秒は記録的にも立派なものです。山田さんの練習記録は残念ながら、多くは残っていませんが、私はわずかに残っている一部を見たことがあります。私が見たところでは山田さんの練習にインターバルはほとんどありませんでした。インターバルというよりはちょっと流し程度にちょこちょこっと入っていた程度で、練習の記録には緩走、中走、急走、の3つの記載がありました。
このやり方はボストン、シカゴ、ニューヨーク、ベルリン、フランクフルトなどのメジャーマラソンでのチャンピオン、トップ3、トップ6を何十人も育て上げ、ケニアンマジックの異名をとったわが師DieterHogenがすべての持久走をEasy,Moderate, Hard の 3 つに分けたのと同じです。原始的なようで先見性のある練習方法と言えるでしょう。
こういった点からも歴史から謙虚に学ぶことは大切です。最大心拍数の何パーセントとかレースペースの何パーセントとか、最大酸素摂取量に達する瞬間の走行速度とか書いた方が科学的で(実際に科学的ではある)、理に適った方法に思えるのですが、実はそうとは限らないということです。
そして、山田さんの練習も週間走行距離はおよそ160キロで、週に一回のロングランがあり、緩走、中走、急走がバランスよく組み合されていました。おそらく先述のクレランス・ド・マール選手と似通ったプロトコルだったはずです。
ちなみに、山田さんは70歳になってからはボストンマラソンの70歳の部で4連覇、そして80歳の年にマラソンを4時間24分で走るという超オールドランナーでもありました。
緩走、中走、急走の三つに分けるやり方は、DieterHogenから直接指導を受けて大阪マラソン日本人トップになった私にも当然受け継がれており、後述のマラソンサブ3 からサブ2.5の為のトレーニングにもそれが受け継がれています。
市民ランナーの方にとっては、特に〇か1ではいけないと思っています。最大酸素摂取量ペースで走れないほど疲れているから、今日はジョギングにしようと思うよりも、自分自身の感覚に従って、中強度や高強度など大雑把な目安で柔軟性を持たせて練習を継続し、トータルで良い練習をすることが重要です。
第六章 エミール・ザトペック
エミール・ザトペック選手は現在のところ、最初で最後の5000m、10000m、マラソンの三種目でオリンピック3冠を成し遂げた選手です。そして、同時に世界中にインターバルトレーニングを広めた選手でもあります。これも歴史の流れと関連性があるのですが、エミール・ザトペック選手はチェコスロバキア、東側の選手でした。
そして、戦前の北欧勢の活躍に目を付けた東ドイツの運動生理学者が速く走るのとゆっくり走るのを繰り返すと競技力が向上するのではないかという仮説を立てて、最終的には心拍数160と120を繰り返すと競技力が向上するという結論になりました。
この理論は今でも中学の保健体育の教科書に載っていたりします。心拍数160と120を繰り返すのがベストかどうかは分かりませんが、インターバルトレーニングの要点として、速く走る区間とゆっくり走る区間に分けるという考え方自体は世界中に広がりました。
しかし、実際には運動生理学者が言うだけで人は信用する訳ではありません。やはり、結果を出してその効果を実証してこそです。それを実証してみせたのが、エミール・ザトペック選手です。
ですが、これも歴史の「もしも」になりますが、もしもインターバルトレーニングを考案した運動生理学者が西ドイツの学者だったら?
もしくはインターバルトレーニングは東ドイツで考案され、エミール・ザトペック選手が西側の人間だったら?
陸上史は書き換えられていたでしょう
「ゆっくり走る方法はもう知っているんだ。僕が知りたいのは、速く走る方法なんだ」
そんな言葉を残して、彼は400mを20本から50本という練習を繰り返しました。時には400m100本という練習にも取り組みました。そして、レースにも出まくりました。
考えてみれば、400mのインターバルという一般的な練習とレースという特異的な練習が上手く組み合せられた訳です。しかも、彼は偶然にも負荷と適応においても調和を図るチャンスがありました。
あなたはザトペック現象という現象をご存知でしょうか?
これはザトペック選手が手術や故障による強制的な休養のあとにいつも好記録をマークしていたことから名づけられました。要するに、質、量ともにザトペック選手の練習はきつ過ぎたのです。
オリンピックの金メダリストの体をもってしてもどんな練習にも適応できるわけではありません。しかし、彼は幸か不幸かキャリアの中の何度かの手術や故障のお陰で出した世界記録がいくつかあります。
彼の人生は政治に翻弄され続けました。最後はチェコで起きた民主化運動プラハの春におけるソ連の軍事侵攻で、残る生涯をソ連のスポーツ大使として生きるか、炭鉱の便所掃除をするか迫られた彼は炭鉱の便所掃除を選びました。鉄の意志をもった男の生き方は超大国の権力をもってしても変えることが出来ませんでした。
そして、富も名声も自由も何もかもを失おうとしていた彼は、オリンピックで獲得した金メダルを「記録男」と揶揄されたロン・クラーク選手に譲りました。ロン・クラーク選手は世界記録をいくつも作りながら、1968年のメキシコオリンピックではメダルを獲れず、オーストラリアの各新聞社の非難を一斉に受けていました。10000mで6番に終わったロン・クラーク選手は帰国前にエミール・ザトペック選手を表敬訪問することにしました。
その時、帰り際にザトペック選手はクラーク選手に「君にはこれがふさわしい」という言葉とともにハグと一つのアタッシュケースを渡しました。クラーク選手は全ての自由を失わんとする東側の偉大なスターが西側の自分に預けた大切な文書か何かだと思い、そのアタッシュケースを空けずに大切に持ち帰りました。
ところが、家に帰って開けてみると中には金メダルが入っていました。「君にはこれがふさわしい」の意味をそこで悟ったクラーク選手は大変感激したという話です。
第七章 ジム・ピータース
ジム・ピータース選手は初めて2時間20分を切った男ということになっているのですが、このことは先述のクレランス・ド・マール選手が1922年に2時間18分10秒でボストンマラソン優勝という記述と矛盾します。これは私の推測ですが、後に距離不足が判明したとかそんな感じでしょう。
ジム・ピータース選手は週に27キロを一キロ4分ペースから初めて、段階的に100キロまで増やしていき、その後更にその平均ペースを一キロ3分37秒まで増やしたそうです。そのあと、更に10000mに特化したトレーニングを組み、28分57秒というタイムをマークしました。10000mのタイムから考えるとマラソンももっと速く走れたのかもしれません。
ジム・ピータース選手は総走行距離も最終的には週に160キロまで伸ばし、またマラソントレーニングのペースは予想するレースペースで行わないといけないと信じていました。以上を総合すると、中強度の持久走、10000mレースの為のスピードワーク、マラソンに特化したテンポ走などのバランスがちょうど良かったのでしょう。更に、かれはオーバートレーニングにならないように細心の注意を払い、マラソンレースの後は充分な休養を取るようにしていました。
このことからも、分かることは負荷と適応においても調和が図れていたのだろうということです。ジム・ピータース選手は最終的には2時間17分39秒まで世界記録を伸ばし、彼が引退した時には世界歴代上位6位までの4つを占めていました。
しかし、そんなジム・ピータース選手にも間抜けな話が無かった訳ではありません。世界記録を引っさげて参加した1952年のヘルシンキオリンピックのことです。
すでに5000m、10000m で二冠し、初マラソンに挑んできたエミール・ザトペック選手が16キロ地点で「失礼、これが初マラソンでペースがよく分からないんだが、ちょっと速すぎないかね?」と尋ねてきたのに対し、ピータース選手はからかうつもりで、「いや遅すぎるね」と返しました。
そうすると、ザトペック選手は「本当に遅すぎるんだね?」、それに対し「ああ、そうだとも」と返すと「そうか、それではお先に失礼」という言葉を残してペースアップすると、ザトペック選手はそのまま金メダルを獲得しました。
策士策に溺れるではないですが、こういう話はなんとも面白いですね。
第八章 レオナルド・バディ・エデレン
レオナルド・バディ・エデレンはアメリカ生まれのアメリカ育ちですが、成人になってからはヨーロッパに移住し、主戦場をヨーロッパに移します。
そして、マラソンを13本走って7回優勝、当時の世界最高記録の2時間14分28秒まで伸ばし、まさに快進撃というべき記録を残します。私はある意味では、近代マラソンを作ったのは彼だと思っています。
それは記録的にもそうなのですが、以下のようなテンプレートを作ったからです。
・総走行距離は週に160キロ
・週に一回32キロから38キロのロングラン
・週に1回ロングランよりも速いペースでの、20キロから24キロ走
・400メートルから800メートルのインターバル
・スピードワーク(詳細は不明、おそらくスプリントトレーニング的なもの)
現代のマラソントレーニングに必要な要素を網羅していると言って良いでしょう。現代でもこれにバリエーションを加えて修正すれば、そのまま使えます。
第九章 ディレク・クレイトン
人類で近代マラソンに突入させた初めの男と言えば、ディレク・クレイトンでしょう。何が革新的かと言えば、初めて2時間10分を切ったということもそうなのですが、このレース、中間点までは2時間6分台のペースでいってるんです。
そういう意味でも、世界で一番初めに近代マラソンを展開したと言えると思います。これが1969年の話なので、日本ではまだ瀬古さんも中山さんも出現しておらず、池田勇人内閣による所得倍増計画がちょうど終了したころ、農業基本法が制定されて、とにかく米とか芋とか腹の膨れるものを作っていた農業から、それぞれの土地の気候に合うものを作りましょうという方針に転換されたころです。
早い話が日本ではまだ国民全体がある程度豊かになって、次の段階へ歩を進めようとしていた頃に現代でも通用するような近代的なレースを展開しようとしていた男がいたということです。また、彼が近代マラソンを展開した大きな要因としては、その練習量にもあると言えるでしょう。
確かにエミール・ザトペック選手のように400m100 本などの一見無茶に思える練習をした選手がいたのも事実ですが、継続的に積み重ねていくという観点からは、ディレク・クレイトン選手が近代的な練習量を作った初めての選手だと思います。
当時のクレイトン選手の練習の細かいところは分かりませんが、コンスタントに週に200‐250kmを走りこみ、週一回は1マイル4本という練習に取り組んだそうです。
しかし、やはり練習量が多すぎたようです。彼は何度も手術台の上に上がる羽目になり、そして彼の競技人生の中で良いレースが出来たのは、いつも故障による強制的な休養から復帰した時でした。ザトペック現象の典型的な例であり、彼自身、「少し練習が多すぎた」と回顧しています。確かに、これは難しい問題であります。
現在ロードレースやマラソンの世界で最も成功しているコーチのレナト・カノーヴァも「日本人は練習量が多すぎてトップシェイプは二年ほどしか続かない」と述べています。野口みずきさん、清田真央さんらを見ているとさもありなんという感じですが、果たしてどう考えるべきなんでしょうね?
多くの選手は結果も出せないままにシューズを脱ぐことになりますし、結果も出せない、故障に苦しんだまま終わる人もたくさんいます。というか、それが大半です。
練習は必要だけど、過多になるとマイナスになる、その微妙なラインを攻めるためにもディレク・クレイトンは人類に多大な貢献をしたと言えるでしょう。
第十章 宇佐美彰朗
宇佐美さんは1960年後半から1970年代にかけて大活躍した日本のマラソンランナーですが、この人もまた異色の経歴の持ち主です。元々テニスをやっていて走り始めたのは大学時代からなのですが、めきめきと頭角を現し、またランニングフォームの研究を大学の卒業論文で出したり、高地トレーニングについても自分の体を使って実験したり、非常に知的な方です。
1968 年にメキシコシティオリンピックで9番に入ったのですが、メキシコシティオリンピックに向けて実施した高地トレーニングが低地での競技力向上にも役立つということに気づき、その後高地トレーニングを継続的に取り組み、2時間10分37秒という好記録をマークするに至ります。宇佐美さんの高地トレーニングに関する見解は現在の国内外の高地トレーニングを実施するトップランナーの見解とは反するものもたくさんあります。
ですが、宇佐美さんの体を使って何度も実験をしたのですから、少なくとも宇佐美さんの体にはそれが正しかったのでしょう。様々な意味で多くの発展をもたらした方です。
第十一章 ビル・ロジャース
ビル・ロジャースは宇佐美彰朗さん、中山竹通さんらと並んで大器晩成型のランナーであることに間違いはありません。それには理由があります。ビル・ロジャースが生きた時代はちょうどベトナム戦争の頃で、当時アメリカには良心的懲役忌避という制度が設けられていたのですが、戦争に行くのを拒否する代わりに奉仕活動に従事しないといけませんでした。
そして、ビル・ロジャースは良心的懲役忌避を選び、病院で仕事をするのですが、そこでの仕事はまさに社会の底辺で、様々な雑用や死体の処理などを担当したそうです。
しかし、ビル・ロジャースはそこで、病気になり、家族も身寄りもおらず、誰も気にかけてくれず、ただただそこに存在しているだけのたくさんの病人たちに接することになり、ショックを受けることになります。その負のエネルギーをランニングに注ぐことになったのがビル・ロジャースです。
更にビル・ロジャースは共産主義思想を信奉しており、病院でストライキの旗振りをした結果、病院に出入り禁止になりました。
良心的懲役忌避の上に、ストライキをしたので、就職は不可能で、ガールフレンドのエレンのアパートに転がり込みました。
しかし、結果的にはそれが彼にとって良かったのかもしれません。まずは走る距離を徐々に増やし有酸素能力を養いました。ただただ走るだけではなく、様々な距離と速度を組み合わせ、バランスよく練習を組みました。
ビル・ロジャースがそのころ様々な種類の持久走をバランスよく組み合わせることが出来たのは、大学時代に私のようなランニングマニアがいて、彼からトレーニングに関する様々なことをレクチャーされていたからです。
そして、有酸素能力を十分に発達させた後で、400m68秒ペースのインターバルに取り組みました。初めは400m、次に800mになり、やがて1200mになりました。そして、ローカルなレースにも出ながら、特異的な能力を養うと、2時間16分当たりを目指していたボストンマラソンで直感に従い、序盤で集団から抜け出すとそのまま2時間9分5秒の米国新記録でゴールしました。
当時のメジャーリーガーが使いきれないほどのお金を稼いでいた中で、ビル・ロジャースは米国記録保持者にもかかわらず、フードスタンプの受給者でした。日本でいう生活保護受給者です。
しかし、名前が売れた彼は無事にビル・ロジャースランニングショップを開き、後に瀬古さんとのボストンマラソン一騎打ちに敗れた際には「ビル・ロジャースの店の前でスパートをかけた」とジョークのネタにされたお店です。
ビル・ロジャース自身はまだ気づいてなかったかもしれませんが、彼は有酸素ベースの上に無酸素ベースを養うという王道中の王道を通った選手です。また、様々なローカルレースや10000mのレースに出場したのも良かったのでしょう。よくスピード化時代の到来と言われますが、長い距離を速く走ろうと思えば、スピードも持久力も必要に決まっています。ビル・ロジャースは1960年代にそれらのバランスが最高潮に良かった選手です。
第十二章 フランク・ショーター
フランク・ショーターのトレーニングはビル・ロジャースに少し似ているかもしれませんが、違う点はフランク・ショーターの方が10000mに特化していたことです。
自身を10000mのランナーだと認識していたフランク・ショーターは絶対に32キロ以上走りませんでした。「2時間以上走ると筋肉が破壊される感じがした」というのは彼の言葉です。
この言葉からも分かるように、初めから32キロまでしかやらないと決めてかかった訳ではなく、色々テストするうちに32キロ(20マイル)に落ち着いたはずです。
また、彼は35キロ走や40キロ走が絶対的な悪だと決めつけていたわけではなく、彼が32キロ以上走らなかった理由は、その週のインターバルに悪影響があるからです。
絶対的にダメなのではなく、インターバルの質が落ちるからロングランはほどほどにしておく必要があったのです。では、彼のスピードワークはどのようなものだったのでしょうか?
全盛期の彼のワークアウトの一例を見ると、1200m4本を3分12秒から3分6秒でやったり、400m12本を60秒から61秒でやっていたそうです。フランク・ショーターだから出来たという一言で片づけるのは簡単ですが、彼の5000mの自己ベスト13分26 秒から考えてもこのタイムは速いタイムで彼が真剣にトラックでの自己ベスト更新を狙っていたことがうかがえるエピソードです。
フランク・ショーターの練習は実は私にも大きな影響を与えました。それは32キロまでの練習でもマラソンは走れるということを私は彼から学んだからです。私はだからといって、40キロ走や42キロ走を否定しませんし、実際私もたくさんやりました。これからもやるでしょう。
でも、練習の調和を考えるうえで、32キロまでの練習でも結果は出せるということを学んだ事は大きな財産です。また、特異性という観点からもフランク・ショーターは恐らくそこまで特異的な練習をしていないのではないでしょうか?
彼の現役時代の全ての練習を知っている訳ではないので、断言はできませんが、私の知る限り、5000メートルや10000メートルに特化した練習が中心で、マラソンっぽい練習は32キロ走の後半をおよそマラソンレースペースまで上げるくらいです。
それも充分にマラソンに特化していると言えるかもしれませんが、歴代のトップのランナーと比べると特異度は低いです。それでも、彼は当時世界最高のマラソナーでした。
このこともマラソントレーニングを考えるうえで、非常に参考になります。
また、フランク・ショーター選手はイージーランニングの重要性を強調していた選手でもあり、イージーランニングの日は非常にゆっくり走っていたそうです。ある本によると大学のキャンパスから出てきた小走りで急いでいる女の子が抜いていったとか、プードルの散歩をしているお姉さんがジョギングで抜いていったという記述があります。さすがにそれは言い過ぎのような気もしますが、いずれにしてもゆっくり走っていたそうです。
第十三章 宗さんご兄弟
日本で宗さんご兄弟と言えば、世界におけるライト兄弟くらい有名だと思うのですが、日本で一番初めに体系的なマラソントレーニングを作ったと言っても過言では無いのではないでしょうか?
確かに晩年は旭化成内部でも誰も文句を言えなくなり、ちょっと独裁的になって選手から総スカンを食らっているという話も入ってこなくはないですが、でも日本のマラソン史の中で選手、指導者としての実績はナンバーワンでしょう。
もちろん、実業団なので良い選手は入ってきます。一般の入社試験で受かった人がたまたま陸上部に入る訳ではなくて、初めから陸上で採用しているのですからそれは当然です。
でも、それでも同じ実績をもつ実業団はゼロです。それはもうトレーニングのシステム化に経験を加えた匙加減の一言に尽きるのでしょう。では、宗さんご兄弟のマラソントレーニングとはどのようなものか?
先ず大前提としてトラックで結果が出せるだけの基礎的な練習が出来ていることが重要です。その状態から約3か月のマラソントレーニングを組み、その中で6本から10 本程度の40キロ走を組み、このペースを徐々に上げていきます。初めは2時間20分くらいから初めて、レース前は2時間10分を切る程度まで段階的に上げていきます。
同時にインターバルも1000m10本くらいからスタートしたのが本数が増えたり、2000m のインターバルになったり、3000mのインターバルになったりして最終的には16キロから20キロのペース走になったり駅伝のレースに出たりして仕上げていきます。
こうやってみても非常にオーソドックスでアメリカのコーチブラッド・ハドソンや先述のコーチカノーヴァに近いものがあると思います。宗さんご兄弟、瀬古さんなどの昔のマラソンランナーはひたすら量をこなしていたという話ばかりが広まり、少し口を開けば「老害」などと言われるのですが、紐解いていって中身を精査すれば決してそうではないのです。
ただ、30キロ走をマラソンレースペースでやったりという練習が入っており、少し特異的すぎて真似するのが難しいという面はあると思います。
第十四章 瀬古利彦
宗さんの話をすれば瀬古さんの話もしないといけないでしょう。瀬古さんのトレーニングは3か月間のトラック練習から入り、そこでスピード強化をして、その後マラソントレーニングに入ると、20キロのタイムトライアルや40キロのタイムトライアルが入ってきます。考え方としては、まずは基礎的なスピードを強化し、最低限の脚作りはもちろんやって、そのあとはひたすら特異的な練習を入れて仕上げていくというやり方です。
同じくコーチカノーヴァに近い考え方というか、もしかするとコーチカノーヴァも瀬古さんのやり方の良いところどりをしたのかもしれません。実際に、話の節々に瀬古さんの話が出てくるので、実は結構研究されたのではないでしょうか?
基本的に私は一人でやっている人や市民ランナーの方は難易度は低いけれど、効果のある練習を継続的に積み重ねるべきだと思っています。でも、その上でですが、やれるならある程度特異的な練習を入れていった方が、レースをシュミレーションできますし、仕上がり具合を確認することも出来ます。
あくまでも、匙加減は重要ではありますが、瀬古さんのやり方を古いから役に立たないとは言い切れないでしょう。
実際、練習の記録を見る限り、ペースメーカーがいれば、2時間6分台や5分台が出たレースは何本かあったと思います。記録が向上したからレベルが上がったとは一概には言えないでしょう。記録はある程度作ることが出来ますから。
欠点としては、練習のレベルが高すぎて再現性に物凄く欠けるということでしょう。
我々が学ぶべきところは、1.スピード養成と脚作りからマラソンに特異的な練習に入っている点、2.レースをシュミレート出来るような練習が入っている点、3.マラソントレーニング期間全体において練習のレベルが常に上がっていること(トレーニング刺激に対して常に体が適応している)、4.最後は練習の量と密度を落としてフレッシ
ュな状態を作っていることでしょう。
第十五章 中山竹通
瀬古さんと宗さんの話が出てきたら、やっぱりしないといけないのが、中山さんです。中山さんは強気な性格で、陸連合宿をしてもとにかく周りの選手を振り落としにかかって、練習がレースに早変わりしてしまい、練習が練習にならないので、嫌いだという元日本記録保持者もいるくらい、「野生児」「野放図」という印象が強い方です。本当に強気一辺倒で、人生もトレーニング歴もビル・ロジャース選手に似通っていることも興味深い点です。
中山さんは高校時代は長野県の中ではトップの方にいたそうですが、全国大会への出場はなく、5000mも15分台でした。就職に際しては、養命酒のメーカーに決まりかけており、先生からの「大丈夫だ」という言葉を信じて、失礼になるからとそこ以外からの誘いは全て断っていたそうです。ところが、本社に面接にいくと、社長は自分なんか目もくれていないというのがよく分かったとのことで、面接に落ちて就職浪人になりました。
そのあと、大工の叔父の手伝いをしたり、国鉄のアルバイト職員をしたり不遇の時代を過ごすも走ることだけは絶対にやめなかったそうです。そんなこんなで長野県縦断駅伝で結果を出して、富士通長野に入部すると、そこでも残業や薄給の環境の中で30キロレースで1時間31分の好記録をマークして、ダイエーへと移籍します。
この間、もちろんスピードトレーニングにも取り組んでいましたが、国鉄時代は一度も5000mで16分を切ることは無かったそうです。それでも、とにかく走り続けていれば何とかなるとの思いで、持久力を養い続けたそうです。
ダイエーに移籍すると監督は元旭化成の佐藤進さんで、佐藤さんの練習もとにかく走らされたそうです。1000m10本を3分ちょうどのような練習もあったけれど、基本はとにかく走れ走れで30キロ走、40キロ走、4時間ジョグなどがこれでもかというくらい入っていたそうです。でも、それでも初マラソンを2時間14分で走るというのがまた不思議ですよね。
勿論、最終的にはスピード練習に取り組み日本のトップへと駆け上がる訳ですが、やっぱり練習できる体作り、マラソンを走り切れる脚作りから始めるというのは遠回りなようで結構近道なのでしょう。
中山さんがダイエーに入ったころの監督の佐藤進さんはのちに積水化学でも監督をして、そこに入社してくるのが、清田真央さん、安藤友香さんらを育て上げた里内正幸さんです。
そこで、里内さんはやはりとにかく走って走っての練習を経験し、それから最後に女子のトレーニングパートナーをやりながら、マラソンを走り、そこでやはり思いっきり練習することのメリット、デメリット、女子レベルの練習しかやらなくても思ったより走れたことで、そのメリット、デメリットを体で覚えながら、今の選手の指導にあたっているそうです。
やはり、何でも経験ということなのでしょう。
話を中山さんに戻しますが、中山さんは無茶苦茶なようで、全てにおいて段階を踏みながらされています。富士通長野を出てダイエーに移籍する頃には既に「瀬古さんに勝つ」と宣言していたそうですが、そこに至るには段階を踏んでいかないといけないということも常に理解しながら練習をされていて、実際に断片的にではありますが、練習は段階を踏んでレベルアップしています。
また、ハーフマラソンを1時間1分55秒という当時の日本記録よりも速いタイムで通過し、2時間8分18秒で優勝した伝説の1987年の福岡国際マラソンの1か月前の練習も観ましたが、正直「あっこんなもんなんだ」という程度のものでした。
やるだけなら、大学時代の私でも全然できる練習でした。ですから、中山さんだっていつもいつも何も考えずにがむしゃらにやっていたわけではなく、質も量も落とすべき時は落としていたのです。
ですから、中山さんから我々が何かを学ぶとすれば、長期目線で段階を踏んでいくということと、やるべき時と落とすべき時のメリハリをつけることでしょう。
第十六章 ロバート・ド・キャステラ
ロバート・ド・キャステラは宗さんご兄弟、瀬古さん、中山さんらと同じ時代に活躍したオーストラリアの選手です。一度ロバート・ド・キャステラ選手の週間スケジュールが何かに載っていて、「あれっこれどこかで見たことあるな」と思って頭の中を検索してみたら、ヒットしたものがありました。アーサー・リディア―ドというニュージーランドの指導者の著書の巻末に書いてあったトレーニングプログラムをそのまま実施していたのです。
このことからもロバート・ド・キャステラという選手はリディア―ドの影響を受けていたのでしょう。
ロバート・ド・キャステラ選手の練習は私達が見ても非常に参考になります。何故かというと、一つ一つの練習の難易度は決して高い訳ではなく、着実に積み重ねていくことで結果が出るようにデザインされているからです。
実際に、ロバート・ド・キャステラ選手の一番の特徴は長きにわたって活躍し続けたことです。1979年に2時間13 分でオーストラリア選手権に優勝すると、1991年にもサブテンをするなど12年間にわたって世界のトップに立ち続けました。その間、2時間8分18秒の当時世界最高記録を含む11回2時間10分前後の記録をマークしています。それ以外にソウルオリンピック8位入賞も果たしています。
これは消耗品のランナーにとっては稀有なことです。私が思うにウェルビーイングの為のマラソンというのはもしかすると、サブ4から2時間半切りくらいまでかもしれません。この辺りの記録なら、頭さえ使えば、月間300km前後の走行距離で、そしてごく普通の日常生活を送りながら達成できます。
一方、競技者は体も心もすり減らしながら走っている人が多いです。そんな中で、ロバート・ド・キャステラ選手がこれだけ安定して結果を残したのは稀有なことです。世界で唯一という訳でもないのですが、かなり稀有でしょう。
その秘密はランニングへの愛と情熱以外に練習にあるでしょう。確かにロバート・ド・キャステラ選手の練習量は週に200キロ前後と決して少ない方ではありません(多い方でもありません)。
ですが、その内訳はと言えば、午前中に軽く10キロ走り、土曜日は21キロ走のあとに、100mの流しを6本、日曜日は36キロ走を一キロ4分前後、火曜日と木曜日の午後は10キロ走で、月曜日は16キロ走、水曜日は29キロ走で、金曜日は18キロ走、木曜日は10キロを38分で走った後に400m8本を64秒、つなぎは200mを45秒で行います。400m8本を200mつなぎで最後に200mを足すと合計5000m になるのですが、ロバート・ド・キャステラ選手はこの5000mを15分ちょうどから14分半くらいでいっていたそうです。
持久走のペースなど細かいことは分かりませんが、いずれにしても、何か特別な練習をしていたわけではなく、継続的に中強度の練習にバリエーションを付けていたことが分かります。これは我々にとっては非常に参考になる情報だと思います。やっぱり市民ランナーの方は継続していく中で、ちょっとの様々な刺激を組み合わせていくことがベストです。このやり方だと継続もしやすいし、仕事やプライベートとの兼ね合いも上手くいきやすいです。
このように歴史を見ていくと、色々なやり方があるにせよ、だいたい以下のような共通点が見られます。
・5㎞、10㎞が速く走れる
・総走行距離は週に160㎞前後
・継続的に30-40㎞を走っている
・およそ15㎞から20㎞くらいのテンポ走が入っている
・全体的に見れば余裕をもってこなせる練習が大半
・追い込み過ぎないこと、あるいは低強度な練習を低強度におさえることを大切にしている。あるいは故障などの形で強制的に練習を抑えられることで結果が出たという経験を持っている。
・人生経験を通じて、何らかの形で走ることに対する強い動機を持っている(貧困に喘いだ幼少期や青年期、政治的抑圧、自我同一性(アイデンティティ)を確立させようとする努力、時代の波にもまれて身につけた強さなどなど)。
・身体的にも人生のどこかの段階でマラソンで結果を出す前の土台作りの時期がある。その期間は5年から8年ほど。
これらの共通点に過去4年間で数千人の市民ランナーの方とのやり取りを通じて共通点を加味して、市民ランナーの方がマラソンでサブ3からサブ2.5を達成するために必要なトレーニングをもっと詳しく解説した拙著『マラソンサブ3からサブ2.5の為のトレーニング』をたった3000円で販売しております。
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