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執筆者の写真池上秀志

レース中の痛みへの対処法

更新日:2023年2月6日

 先日ある方から以下のようなご質問を頂きました。


「試合中(走っている最中)での「痛み」 例えばレース中のけいれんや腰がいたくなったりした場合の痛みは?


 対処方法としてはロキソニンなどでの応急処置があると思いますが、アドバイスをいただきたく。


 痛みの感じ方は人それぞれだと思いますが、痛みを感じない??ようになるためにどのようなことしていけばよろしいのでしょうか?」


 という訳で、今回はレース中の痛みへの対処法について書かせて頂きたいと思います。


そもそも痛みとは何か

 先ず初めにそもそも痛みとは何かを考えてみたいと思います。実はこの辺りは私の大学時代の研究テーマでもあり、哲学的な観点から答えることも出来るのですが、少し話がそれてしまいそうなので、痛みの機能に焦点をあててみましょう。


 一体痛みにはどのような機能があるのでしょうか?


 言い換えれば、痛みは我々にどのような恩恵をもたらしてくれるでしょうか?


 このように考えると答えは非常に単純で、何か異常が起きていることを我々に教えてくれます。残念ながら、正確に何をすべきかまでは教えてくれません。例えば、その痛みがどこから来ていて、原因が何で、何をすべきかということまでは教えてくれません。


 ただ、何らかの異常が起きていることだけは教えてくれます。それを手掛かりに、どこどこの筋肉をほぐそうとか、LLLTを照射して自然治癒力を高めようとか炎症反応を抑えようと人間は考えることが出来るわけです。


 あとはマラソン終盤になると脚の痙攣と闘う人も少なくありませんが、あれも筋肉的な限界を教えてくれている訳ですよね。私はあまり痙攣の経験はありませんが、やはり脚が重くなってきて、攣りそうな感覚は出てきたりします。その感覚をもとに少しペースを落とすことによって結果的にその時の自分のベストを尽くすことが可能になります。


痛みは正確か?

 では次に痛みは正確かということについて考えてみたいと思います。つまり、痛みが何らかの異常を示すものであるならば、その異常の大きさと痛みの強さは比例の関係性になっているのかということです。異常の大きさという表現が分かりづらければ、組織の損傷度合いと痛みの強さは比例するのかと言い換えても良いと思います。


 実はこれは正確ではなく、往々にして痛みは必要以上に強くなるものです。おそらく、その理由は人間の体は全て生死と性を基準に作られているからでしょう。現代社会では普通に暮らしていれば一日三食食うのに困ることはありません。経済がどうのこうの、物価の高騰がどうのこうのと言いますが、米の価格はまとめ買いすれば1キロ約300円です。3時間コンビニでアルバイトをすれば10キロの米が買えます。


 腹を満たすだけなら困ることのない国です。そんな国に生きている我々の体においても血糖値が低下すると、中枢神経は集中力や意志力=やる気を低下させます。何故ならば、未だに中枢神経機能は昔ながらのフィードバックとフィードフォアのシステムを持っており、今血糖値が下がり続けているということはエネルギーを節約しないと餓死してしまうと判断するからです。


 でも、これも必ずしも間違っているとは言い切れないですよね。可能性は低いですが、何らかの事情によっていきなり向こう5日間食事にありつけない可能性が0である訳ではありません。


 痛みも同じで、基本的に体は安全パイで生きさせようとします。マラソンのレースを走り切ることは我々にとっては非常に重要な行事ですが、中枢神経からすると猛獣や外敵に追われている訳でもないのに、走り続けるのは馬鹿げた行為です。ですから、早め早めにストップをかけさせようとします。


 では、命がかかっていたら、もっと動けるのでしょうか?


 答えはおそらくイエスです。


 実際に戦争中ならば、肺に貫通銃創を負ってもその傷に気づかずに闘い続けたとか、腹部の貫通銃創に気づかずに戦闘後5キロ先の味方陣地まで走って帰ってきたなどの例があります。


 ちなみに、ハリウッド映画では敵に追われている味方が脚を撃ち抜かれて倒れ込み「俺に構わずに行け」みたいなセリフを残して敵に捕らわれるシーンがありますが、あれもフィクションで、実際には一発程度であれば脚を撃ち抜かれても走り続けられるそうです。理由は当然命がかかわっているからです。


 では、命がかかっているかどうかは何が判断するのでしょうか?


 これは潜在意識が判断します。要は潜在意識が生死にかかわると判断するだけの臨場感があるかどうかです。戦場ではこの生死にかかわるという臨場感を容易に出すことが出来ます。それは実際に生死に関わるからです。


 ちなみに、私はまだ自炊生活浅かりし頃、油で野菜炒めを作っていたところいきなり炎が噴き出してきたので焦って水をかけてしまいました。結果は皆さまご存知の通りで油に水を注ぐと火柱が立ちます。本当に一瞬で天井まで火柱が上がってその瞬間に「うわっこれ借り家やのにどうしよう。えらい金額やで。20歳で数千万円の借金か。なんとかなるかな。ってか横の家に燃え広がらんかな」と頭の中を物凄い勢いで思考が駆け巡り、1秒後には無事に鎮火していました。


 そして、その時体中から勢いよくアドレナリンが出ていることに私は気づきました。当時の私は一人で練習するときに思うように追い込めずに悩んでいました。いくら集中しているつもりでも河川敷を一人で走っている時に、レースと同じレースの臨場感を出すことに苦戦していたのです。


 そこで私はひらめきました。


 「この感覚をいつでも思い出せるように訓練すれば、一人でも良い練習が出来るのではないか」と


 友人に話したら「やっぱりお前はあほやな」とあきれられてしまいましたが、今から思えば惜しいところまで行っていました。嗅覚を利用してアンカーとトリガーの関係を作ってしまえば出来たのですが、その当時はまだそのやり方を知りませんでした。


 ただ、そのやり方を知っていたとしてもアンカーとトリガーの関係性を強固にするためにはある程度の反復が必要となるので、何度も火柱を立てないといけません。そうこうしているうちに本当に家が燃えてしまうので無理だと思います。

 そんな話はさておき、話を痛みに戻しますが、生死に関わるという強い臨場感を作ることが出来れば、痛みを感じなくなるのは間違いないです。私の経験上、一流のアスリートはこの状態を上手く作れる人が多いので、限界近くまで追い込むことが出来る人が多いです。


 ただ、そうは言ってもこの世の中で最も臨場感が強いのはこの現実世界です。つまり、実際に生死を賭けている訳でもないのに、生死をかけるような気持ちを引き出すのは難しいです。


 最近はどうか知りませんが、私が大学生の頃は箱根駅伝から実業団に上がってモチベーションを維持できない選手が多いことが問題になっていました。箱根駅伝の注目度は陸上競技の中では段違いに高いです。たかが地方の大学駅伝と言っても実際あれだけマスメディアが張り付いたり、観客が詰めかけて視聴率の高いレースというのはそうそうありません。


 箱根駅伝だけではなく、大学駅伝の注目度が高く夏合宿にまでメディアが押しかけます。プロスポーツを含めてもキャンプにまでメディアが帯同するのは野球と関東の男子大学駅伝くらいではないでしょうか?


 そこから実業団に上がると本来ならば、もう一個上のステージになるはずなのですが、そこまで注目度が上がる訳ではないので、モチベーションを維持できないという選手が多かったのです。これも臨場感の問題ですから、なかなか難しいでしょう。私のようなバカは勝手に「世界は自分を中心に回っている」と思い込めるので、一人でもモチベーションが下がらないのですが、正常な人間には難しいと思います。


 ですから、問題点の一つとして生死に関わるという臨場感を出すことが出来れば痛みは感じなくなるはずですが、その状態を作るのが難しいというのが挙げられます。


 また、問題点の二つ目として、痛みと組織の損傷具合が比例の関係性にならないのは事実だけれども、何らかの異常が起きているのもまた事実というのもおさえておくべきでしょう。たいていの場合は、痛みを感じてもその痛みほどの問題は生じていません。ただし、だからと言って、問題が生じていない訳ではありません。


 人間の体は所詮は自転車や車と同じ物体です。車が故障しても運転手は痛みを感じません。しかしながら、車軸が折れてしまえば痛みも感じないけれどそれ以上走ることも出来ません。それと同じで、人間の体ももはや走行不能なくらい組織が損傷すればそれ以上走り続けることは出来ません。このことは先ず一つ理解しておくべきことです。


 ただ、それ以上走れないほど組織が損傷しているのであれば、後悔はないでしょう。


痛みの不思議

 痛みと組織の損傷度合いが一致しないことはお伝えさせて頂いた通りなのですが、それ以外にも不思議な現象があります。


 例えば、オーストラリアの海軍兵士が訓練中に脚をサメに食べられたのですが、嚙みつかれた瞬間は痛みを全く感じなかったそうです。ただ、不意に脚が動かなくなったので水草にでもからまったのかと思い、脚をばたつかせていました。ところが、それでも脚が動きません。違和感を感じて下を見るとサメが自分の脚に噛みついてました。その瞬間強烈な痛みを感じたそうです。


 つまり、この場合においては目視するまでは状況を把握できず、従って脳も痛みを知覚することが出来なかったということです。


 またインドネシアの方では火の上を歩くお祭りがあるそうです。その祭りに参加する若者は長老から一種の暗示をかけれらます。暗示状態に入った若者たちは火傷することもなく火の上を歩けるようになるそうです。


 ヨガの世界にはこれに類似する話がたくさんあります。鉄の棒を祭司の頬を貫通させ、それで担ぎ上げて運んでいくとか、たくさん鍼のついた板の上に寝そべっても痛くもなければ血も出ないとか(確かに穴は開いている)、日本にも天風会という会があるのですが、そこで行われる修練会では手に釘を打ち込んでも痛くもなければ血も出ないというようなことを実践していたそうです。今はもう創始者の天風先生もお亡くなりになられたので、やっているかどうかは分かりません。


 ヨガの世界では周りから見ると難行苦行に見えるようなことをたくさんしていますが、あれは難行苦行ではなくて本来ならば痛いはずのものも心身を統一すれば痛みを感じない、だから心身統一が出来ているかどうかを体で確認するために行うものです。


 この場合においては明らかに生死のかかる場面を前にして、痛みを感じなくなるのとは違います。


痛みを強めるもの

 そういった痛みの不思議の謎に迫る前に、痛みを強める要素はあるのかと考えてみましょう。


 実は痛みを強める要素として不安や緊張が挙げられます。先ほどのオーストラリアの海軍兵士の例を思い返してみてください。この兵士はサメに噛まれているという状況を把握していませんでした。その時には痛みを感じなかったのです。ところが、目視するやいなや「ヤバイ!」という気持ちが体中を駆け巡り痛みを感じるようになったのです。この場合は実際にヤバいので、それで良いのかもしれません。


 もっと卑近な例で言えば、小さいころ転んで擦りむいたりして強烈な痛みに泣いてしまったことはないでしょうか?


 あの時も思い返してみると、瞬間的に死ぬほど痛いのですがお母さんに抱きかかえられて「痛いの痛いのとんでいけー」とやってもらっていると痛みが急速に引いていきます。初めは、血を見て不安や緊張が体を支配し、強烈に痛みを感じますが、お母さんに抱きかかえられることで安心し、更に「大丈夫、大丈夫」と声をかけてもらうことで更に安心し、痛みが引いていくのです。


 つまり、安心や安らぎを感じると人は痛みを感じにくくなり、不安や緊張は痛みを増幅させるのです。


 実はランナーにも同じ現象が起きています。大人になると擦り傷程度では泣いたり不安になったりはしません。それは擦り傷程度なら人生で何度も経験しており、痛むけれどたいした問題にはならないことを知っているからです。


 ところが、走行中の痛みは実はそうではないのです。擦り傷のように目では見えないけれど、痛みが襲います。そうすると、大抵の人は不安を覚えます。緊張もします。実はこれが痛みの増幅に繋がるのです。気持ちはめちゃくちゃよく分かります。私も腰から下で故障していないところは一つもないくらい故障していますから。


 ただ、落ち着いて対処すると大した痛みではないことも多々あります。少なくとも痛みは和らぎます。繰り返しになりますが、これは程度問題です。車のタイヤがパンクしたらもはや正常に走れないのと同じで組織が損傷すればなんともならないこともあります。


 でも、なんとかなることもあります。なんとかするにはどうすれば良いのかというと要は緊張と不安の反対をすれば良いのです。それはリラックスすることです。落ち着いた気分を作ると言っても良いです。


 ただ、これは口で言うとなんでもないことのように思われると思いますが、実際には訓練をしないと出来ません。少なくとも私は訓練しないと出来なかったですし、大抵の人はそうだと思います。


 もしも訓練しなくても出来る人であれば、「自分の中で安らぐ感覚」と書いて分かるはずです。


 あなたは「自分の中で安らぐ感覚」と言ってお分かり頂けますか?


 分かる人はこれでいけるはずです。


 もしも、分かるのであれば痛みを感じたら自分の中で安らいでください。そうすれば、痛みは和らいでいきます。それでいけるはずです。


 普通は分からないものなので、もう少し説明させて下さい。


 先ず人間というのは普通どこかに余分な力が入っているものです。立っているだけ、座っているだけ、歯磨きしているだけでもどこかに余分な力が入っているものです。そして、そのことに気づくのは余分な力が抜けた時だけです。余分な力が抜けて初めて余分な力が入っていたことに気づくのです。


 逆に、余分な力が入っていたときから普通の状態に戻った時の感覚はお分かりいただけると思います。会社の上司とか先輩とか高校時代の恩師とか一緒にいると緊張する人っていませんか?


 そして、そういった人と別れた時に、ふっと全身の力が抜けるように感じることってありませんか?


 あれが緊張状態から普通の状態に戻った状態です。そして、大抵の人はその通常状態から更にリラックス状態にもっていけるということです。


 そして、これは精神的にもそうなんです。それこそ身体的には本来問題がない状態でも、不安や緊張状態が高まればそれだけでどこかが痛くなります。「胃が痛くなる」というのはその最たるものです。心臓が痛む(胸が痛む)とか頭が痛むとかも一部は精神的なものです。


 私も一時期、会社経営が大変で胃が痛くなったことがありましたが、我ながら情けないなと思いました。その時はこれから紹介させて頂く瞑想によって治しました。


 では、どうやって体から緊張状態を取り除くのかということですが、瞑想を使います。何故瞑想が良いのかと言うと意識的に弛緩状態を作るのに一番良いからです。睡眠状態はもう意識を失っているので、自分でコントロールすることが出来ません。瞑想状態は限りなく外界からの刺激をシャットアウトし、睡眠状態に近づけながらも睡眠状態に入らない最適な方法です。


 鉢伏合宿にご参加いただいた際に瞑想講習会を実施させて頂いた時には、どんな姿勢でも一番自分が楽だと思う姿勢を取ってくださいと言いましたが、この瞑想の際には必ず正座か結跏趺坐か半跏趺坐の姿勢を取ってください。実は古来より禅僧やヨガの行者がこの姿勢を取るのには理由があって、下半身を固定することによって弛緩状態が作りやすくなるのです。


正座




結跏趺坐


半跏趺坐


 やや逆説的ですが、適度な緊張状態を下半身に作った方が弛緩状態を作りやすいのです。


 そして、次に瞑想用の音楽を用意します。この音楽は落ち着いた気分になるものであれば、なんでも構いません。モーツァルトの全集でも構いませんし、ジャズでも構いません。


 私のおススメを二つ紹介させて頂きますと、一つ目はユーチューブに上がっている中村天風式安生打座法の音源です。この音源では波の音と静寂が交互に現れます。波の音に耳を澄まし、そこでふと静寂が訪れると無心に入ることが出来るという代物です。




 二つ目は、苫米地英人博士という方が作った特殊音源です。12000円しますが、それだけの投資価値はあります。私はいくつか購入してこちらを普段は使っています。



 正座、結跏趺坐、もしくは半跏趺坐の姿勢で目をつむり、特殊音源をイヤフォンで聞くとこれで聴覚と視覚情報がシャットアウトされたことになります。これでおよそ80%の外界からの刺激をシャットアウトすることになります。手は親指以外の四本の指を重ね合わせ、親指をすこし触れるようにして下腹部の前に添えます。




 これで触覚情報もシャットアウトされました。


 この状態で、特殊音源に耳を澄ましながら、3秒吸って2秒息を止めて15秒間息を吐くという呼吸を繰り返します。この時に、15秒間息を吐きながら頭の先から順番に緩めていって下さい。自己暗示のように頭の先から順番に力が抜けていくところをイメージして下さい。


 実際に力が抜けていって姿勢を維持できなくなったら、倒れてしまっても構いませんので、これを続けてください。ちなみにですが、結跏趺坐の場合、力を抜いていって完全に崩れてしまっても下半身の形は崩れないことがほとんどです。そういう意味からも結跏趺坐は適しています。


 こうやって頭のてっぺんから足の先まで力を抜いていき、自分でこれ以上は抜けないと思ったら、ひたすら特殊音源に聞き入ってください。能動的に聴くというよりは、意識を音源に奪われているというようなイメージです。この時、何も考えていない無念無想の境地に至ることが出来ます。


 そして、この時の感覚を走っている時にも思い出すんです。何度も何度もこの感覚を覚えさせれば、走っている時も全く同じとまではいかなくても似たようなリラックス状態に入れるはずです。


 人は普通走っていて痛みを感じると緊張したり、不安になります。それが余計に痛みを生み出し、更に該当箇所の筋肉をこわばらせてしまうので、余計に痛くなります。瞑想中の感覚を思い出すことで落ち着いてリラックス状態にもっていくことで、痛みが和らぎます。


 また、普通痛みが出るとそこに意識が集中していまいます。意識が集中してしまうと余計に痛みを感じてしまいます。人は青いものを探せば青いものばかり見つかり、赤いものを探せば赤いものばかり見つかる、自分は駄目な人間だと思い込めばダメなところばかり見つかるし、自分は優れた人間だと思えば優れたところばかりが見つかる、そういう風に出来ているのです。


 そういう意味においても、無念無想の感覚を思い出すことで意識が痛みから離れ、痛みが和らぎます。とは言え、「痛みのことを考えないでおこう」と思ってもそう思った瞬間にもう痛みのことを考えてしまっています。考えないでおくというのは難しいものです。では、どうすれば良いかと言うと無念無想の境地に入ろうとすれば良いのです。瞑想中の感覚を思い出そうと努力すれば良いのです。


 瞑想中の感覚を思い出そうと努力した瞬間、もう意識は痛みから離れます。少なくとも幾分は離れます。


 さらに化学的に言えば、この精神状態がきちんと作れると脳内からのベータエンドルフィンという内因性オピオイドの分泌量が増えます。内因性というのは体内で作られるという意味であり、オピオイドというのは麻薬のことです。痛み止めなどにモルヒネが使われますが、内因性オピオイドはモルヒネにも勝ると言われています。


 ベータエンドルフィンが出る時に人は至福の幸福を感じます。ちなみにですが、人は限界まで体を酷使したり、痛みつけるとベータエンドルフィンが分泌されます。レースの後のあの解放感やインターバルの後のあの解放感はベータエンドルフィンやセロトニンというホルモンの影響が多分にあります。


 ちなみにですが、マゾの人も本当にマゾというのはあり得るんでしょうか?


 つまり、痛みつけた後のベータエンドルフィンやセロトニンによる多幸感が気持ちが良いというのは何となくわかります。その一方で、苦痛そのものが快感ということはありえるのでしょうか?


 要は鞭で打たれることそのものが快感ということはありえるのでしょうか?


 これに答えを私はもっていません。誰か知っている人がいれば、あるいは我こそはマゾヒストだという方がいらっしゃったら教えてください。


 走っている最中も多かれ少なかれベータエンドルフィンは出ているはずです。ただ、問題はその分泌量を増やせるかどうかがカギとなります。アドレナリンがたくさん出ている時もベータエンドルフィンは分泌されやすいですが、この高度のリラックス状態=至福の状態入っている時もベータエンドルフィンが出やすい状態になります。


ですから、何度も瞑想を繰り返して高度なリラックス状態を繰り返し作り、その感覚をいつでも出せるようにしておけば少なくとも人よりは痛みに対して強くなります。


ストレスホルモン対ベータエンドルフィン

 人間の体内で起こる諸現象をたった一つのホルモンで説明することは出来ないのですが、見出しとしてはストレスホルモン対ベータエンドルフィンとさせて頂きました。要は、極度の興奮状態を作るのと極度のリラックス状態を作るのとどちらが良いのかということです。


 これは一概には言えませんが、私は後者の極度のリラックス状態を作ることをおススメさせて頂きたいと思います。実は私は両方試しました。というより、セルフコーチングを始めて以来の永遠のテーマの一つといっても良いと思います。


 一人で練習することの難しさは、市民ランナーの方はお分かりいただけると思いますが、一人で追い込むことの難しさです。もちろん、一人でも苦しい状態にはもっていけるんですけど、苦しい割には体が動かないことって多々ありますよね。どうしても、試合と同じようには走れないです。


 ある程度動かないのは正直仕方がないです。臨場感が違いますから。試合では何割かは火事場の馬鹿力的なものが出ています。それはやっぱり、審判の方がいて下さって、招集(一次点呼、二次点呼)があって、一緒にレースを走る人がいて、スターターがいて、ゴールタイマーが動いて、観客がいてという状況の中で発揮できる力とのどかな河川敷でおじいちゃん、おばあちゃんが散歩している雰囲気で出せる力はどうしても変わってしまいます。


 場の雰囲気みたいなのが全然違うんです。長距離走で記録が出るレースと言えば日体大記録会とか静岡県長距離記録会です。トラック種目の上位100傑の大半がこの2レースで記録されます。京都だと毎年冬に補助競技場で行われる記録会で記録が出ます。日体大記録会みたいにレベルは高くないですが、14分台から14分20秒くらいまでの記録を狙うにはもってこいです。


 これらの記録会の特徴も観客と選手の距離が非常に近く、また記録会なので出場選手全員の望むものはただ一つ記録です。大体同じくらいの力の選手が同じ組になるので、記録を出すということに対する場の雰囲気が物凄く高まります。私もいくら偉そうなことを言ったってやっぱり場の雰囲気の力を借りると一人で走るよりも記録は出やすいです。


 一方で、河川敷とか公園とかって基本的には市民の憩いの場か通勤、通学の道なので場の雰囲気が一体化されないんですよね。どちらかと言えば、憩いの場で一人戦闘モードになろうと思っても憩いの場という場の雰囲気が妨げになります。


 そんな訳で、私も一人練習始めた頃はインターバルで思うように走れないことってよくありました。間に休憩はさんでるのに、レースペースですら走れないんですよ。そういった経験も積んで、逆に上手く組み合わせれば練習からは考えられない記録がレースでは出せることも学びました。ただ、やっぱりある程度は動いてもらわないと困る訳ですよ。


 初めにやったのは、アップテンポな曲を聴いてストレスホルモンを分泌させて、ついでに『冬の喝采』の中の中村清を想像しながら、「おらおら、全然動いてないぞ。そんな走りしか出来ないなら死んでしまえー」とか言う声を聴きながら(幻聴です)、走っていました。


 その頃はよくB’zの流行過多とか孤独のRunawayとかを聴いていました。




 ただ、これには欠点があって、先ず一つは物凄く疲れるとうことです。一本一本の練習に集中するのにものすごいエネルギーを使っていました。やってることとしては、平時に1人だけで戦時の精神状態を作るということです。


 当然ですが、この集中状態にもっていくには日常生活から平時を取り除いていかないと出来ません。練習の2時間前に吉本新喜劇を見てそこから急に戦時状態にもっていくというようなことは出来ないのです。


 だから、一回一回のインターバルの為にかなり精神をすり減らしていました。負担が大きいと再現性が下がります。つまり、頻繁に使うには適していませんし、そうすると結局集中しているようで集中しきれていないという現象が出てきてしまうことになります。


 繰り返しになってしまいますが、どうしても臨場感が大きな壁となって立ちはだかるんです。レースでは場の雰囲気を借りることが出来ますし、実際に市民ランナーの方も東京マラソンや大阪マラソンなどの大きなレースに憧れます。それはやっぱり、その場の雰囲気が違うからだと思います。


 あんな大都市の大通りを走れることなんて先ず他にはありません。沿道の観客の数も多いです。とは言え、所詮は平時なんです。命のやり取りをしている訳ではありません。その辺りに難しさがあります。


 一方で、高度なリラックス状態を作ってそこから持っていく方は負担が非常に少ないです。だって、リラックス状態なんですから。ただ、本当にだらけている状態ではありません。同時に高度に集中している状態です。


 また、長距離ランナーにとっての大きなメリットとしては、極度のリラックス状態を作ることで酸素消費量が下がるということです。要するに、楽に走ることが出来るんです。確かに、長距離走というのは普段のトレーニングが一番大切で、小手先の精神テクニックで乗り切れるほど甘くはありません。


 ただ、力んでしまって無駄にエネルギーを消費するというのは多々あることです。先述の日体大記録会とか京都陸協の記録会なんかにいくと、指導者の方が選手に「焦るな焦るな、落ち着いていけ。まだいけるから大丈夫!」みたいな声かけをしている場面に頻繁に遭遇します。


 あれも焦ってしまうと、筋肉がこわばり酸素消費量が増大し(エネルギーを浪費し)、落ち着いて安心して走ると酸素消費量が上がらないということを経験的に知っているからです。ですから、長距離走というのは必ず中盤で一度苦しくなります。でも、そこを我慢すれば大抵は最後もう一回ペースを上げることが出来ます。ですから、苦しいところで焦らずに安心して淡々と刻んでいくことが求められます。


 ですから、高度なリラックス状態に意識的に入れるように普段から訓練しておくことは痛みへの対処だけではなく、様々なメリットがあるのです。


ロキソニンは効く?

 私自身は走っている最中にロキソニンなどの非ステロイド系の抗炎症座を服用したことはありません。イブプロフェン(イブクイック)、アセチルサリチル酸(アスピリン、バファリン)なども全て作用機序は同じです。理由は先述の通り、内因性オピオイドの方が強力であることと、そもそも非ステロイド系の抗炎症薬を携帯して走りに行くことがないですし、服用してから効果が現れるまでに30分ほどかかるのも難点です。


 ただ、何人もの市民ランナーさんからレース中に非ステロイド系の抗炎症薬で乗り切ったという話を聴いております。ですから、ありかなしかで言えばありなんだと思います。よく勘違いされているのですが、こういった非ステロイド系の抗炎症薬は日本語では痛み止めと言われることが多いです。


 でも、神経系に働きかけて痛みを感じなくさせている訳ではなく、炎症反応を抑えているんですね。だから、こういった非ステロイド系の抗炎症薬を服用して走り続けたからそのせいで痛みが悪化するというのはなくはないですが、考慮するほどのことではないです。本当に組織が損傷していれば、非ステロイド系の抗炎症薬ごときで走り切れるようなものではありません。


 デメリットとしては先述の通り、効き始めるまでに時間がかかるということと、内臓への負担が増すということです。腹痛のリスクは高まります。まあでも、30キロ地点で服用するとして、そこからキロ5で走ればあと1時間、副作用が出るリスクはそこまで高くはないと思います。覚悟はしておくべきだと思いますが。


 そんな訳で、内因性オピオイドの方が強力であるという観点から私は摂らないけれども、選択肢としては無しではないという結論になります。


 今回はレース中の痛みについて書いてみました。私自身もかなりの激痛に耐えて、マラソンに強行出場した経験はあります。2018年の大阪マラソンです。この時の練習は本当に順調に出来ていて、優勝するのは俺だと心の底から信じていました。まだ大阪マラソンのレベルが上がる前で、大会記録は2時間11分48秒とかでした。大会記録を更新して優勝する自信がありました。


 ところが、レース2週間前の日体大記録会の10000mに出場して故障してしまいました。レース直前まで歩くだけでも痛い状態で5日前に8キロをキロ5で走るのが精一杯でした。しかし、人生最大のチャンスを逃すまいと私は持っている限りの心理テクニックを駆使して、なんとか残り4日間練習し、スタートラインに立ちました。


 歩行時の痛みの強さを考えれば、キロ3で走っている際の痛みが驚くほど少なかったです。それでもやっぱり、組織は損傷している訳です。最後は私ではなく体が走るのをやめました。それ以上はどうやっても、もう動かなかったのです。シューズを脱いだらパンパンに腫れあがっており、2時間後にはもう普通に立つことすら出来なくなっていました。


 痛みをコントロールできるようになることは無敵の体を手に入れることではありません。ただ、一つだけ言えることはその時の私の心の中に後悔の念はなかったということです。「もう少し我慢したらいけたかもしれない」とか「もうちょっと集中してたらいけたかもしれない」とか「もしも走り続けないと殺すと言われて銃を突き付けられたらまだ走れたのではないか」という気持ちは1ミリもありませんでした。悲しいけれど、事実を受け入れるしかないという気持ちになりました。


 それだけでも良かったのではないかと思います。


 今回はレース中の痛みへの対処法をお伝えさせて頂きましたが、慢性的な痛みへの対処法にはまた別のアプローチが必要になります。慢性的な痛みを抱えている方は是非こちらをクリックして、「慢性的な痛みの治し方」を参照にして下さい。


追伸

 先日公開させて頂いたブログ記事「ランナーの為の基礎体力作り」はもうお読みになられましたか?


 大学時代はよくチェッカーズの「ギザギザハートの子守歌」を聴いていました。


 あーあー分かってくれとは言わないが、そんなに俺が悪いのか?


 記事を読んで下さった方にはお分かりいただけると思います

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筆者紹介

​ウェルビーイング株式会社代表取締役

池上秀志

経歴

中学 京都府亀岡市立亀岡中学校

都道府県対抗男子駅伝6区区間賞 自己ベスト3km 8分51秒

 

高校 洛南高校

京都府駅伝3年連続区間賞 チームも優勝

全国高校駅伝3年連続出場 19位 11位 18位

 

大学 京都教育大学

京都インカレ10000m優勝

関西インカレ10000m優勝 ハーフマラソン優勝

西日本インカレ 5000m 2位 10000m 2位

京都選手権 10000m優勝

近畿選手権 10000m優勝

谷川真理ハーフマラソン優勝

グアムハーフマラソン優勝

上尾ハーフマラソン一般の部優勝

 

大学卒業後

実業団4社からの誘いを断り、ドイツ人コーチDieter Hogenの下でトレーニングを続ける。所属は1990年にCoach Hogen、イギリス人マネージャーのキム・マクドナルドらで立ち上げたKimbia Athletics。

 

大阪ロードレース優勝

ハイテクハーフマラソン二連覇

ももクロマニアハーフマラソン2位

グアムマラソン優勝

大阪マラソン2位

 

自己ベスト

ハーフマラソン 63分09秒

30km 1時間31分53秒

マラソン 2時間13分41秒

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