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執筆者の写真池上秀志

平井健太郎という男がいる

更新日:2021年6月28日


 寒風吹きすさぶ越辺川の土手で沈みゆく夕日を見ながら、一人でインターバルをする。1.5キロを8本と1キロを4本、1.5キロは2:59-2:57で余裕を持って走り、最後の1キロ4本は2分50秒であがる。このインターバルの合計距離は16キロ、後半は脚を使わずにスピードが求められる。ハーフマラソンやマラソンでの体の使い方を覚えるには良い練習だ。若干ハムストがつりそうな感覚を覚えながら、あの日のことを思い出していた。


 あれは大学二回生の小雨の降る京大グランドでの練習でした。当時京都大学の学生だった平井健太郎との5000m3本、インターバルの合計距離が15kmに到達したのは、私の人生では初めてでした。1キロ3分5秒くらいのペースで行こうと言っていたけれど、1本目の初めの1キロを私が2分54秒で入ると、そのままややペースを落としながらも1キロ3分くらいのペースで行き、3本目の最後の1キロで平井がペースをあげると私は落ちました。苦しかったけど、楽しかった、そんな今でも思い出に残る練習です。


 平井健太郎は、きっとあなたに強烈な印象を植え付ける人間です。喋ってもそこらへんの爽やかなお兄さんという感じなのですが、存在自体が強烈です。今回はそんな平井健太郎について書いてみたいと思います。


 平井健太郎と私との出会いは、JFEスチールの寮を借りて実施された合宿でした。平井は報徳学園、私は洛南高校のメンバーとして参加したのがこの合宿です。合宿はとても厳しく、また真冬にも関わらず、風呂の温度が低くて入ったは良いけど上がれない、湯がぬるいんだけれど、出るときの寒さに比べたらマシ、でも入ってても温まらないみたいな絶妙な温度で、誰が一番に上げれるかみたいなことをやっていた合宿です。この合宿で少し話すことができたのが平井健太郎です。その時はまだ平井と色々な話をすることになるとは思いもしませんでした。


 平井は近畿高校駅伝の3区で区間2位に入るほどの活躍を見せながら、京大に合格しました。経験した人ならわかってもらえると思いますが、近畿高校駅伝で11月の最後、全国高校駅伝は師走の暮れにあります。ここまで集中力を切らさずに陸上と勉強を両立させることは並大抵のことではありません。私自身は京都教育大学で、陸上も大学の偏差値も平井よりもワンランク下でしたが、それでもきつかったのを覚えています。平井はそんなとんでもないこともやってのける男でした。


 大学に入ると、やっぱり報徳学園や洛南高校でやっていた私達からすると、関西の学生はレベルが低かったです。競技的には力のある選手もいるのですが、意識の高い選手が少なく、もう初めから関東の学生との間には明確な線を引いていました。確かに力のある選手のほとんどが関東の私大に行くのが現実ですから、力が劣るのは仕方ないのですが、それにしても追いついてやろうという気概が感じられませんでした。初めから関東の学生がやる練習は別で俺たちには関係ない、そんな空気が蔓延していました。ちなみに今大塚製薬にいる上門大祐も私たちの同い年で、京都産業大学にいました。上門は物静かで普段はそんなに感情を表に出さず、一年一年地道に力をつけていくイメージでした。レースも堅実なレース運びで着実に勝ちに行く展開が多く、冒険をするタイプではありませんでした。


 とは言え、私も入学した時は力がそこまでなかったので、関東の学生との差は歴然としていました。その差が徐々に埋まって、だいたいどこの大学でも箱根駅伝のメンバーに入れるかなという手応えを感じたのが、大学2回生くらいです。そうではあっても、平井と私からすれば、高校時代競り合ったメンバーが関東の大学に行って活躍しているのだから、自分たちでもやれるだろうと思っていましたので、なにかと話が合い、勉強になることも多く、折に触れて関わることになりました。


そのときの私の平井に対する印象はセンスがあるというものでした。自分のことをよく理解して、こういう結果を出すためにはこういう練習が必要みたいなものを肌で感じているようなそんな印象でした。あまりガツガツした感じではなくて、コツコツとやるべきことを積み重ねていく、そんな印象で、バランス感覚のある人間、それが私の平井に対する印象です。私自身がバランス感覚に欠如し、0か100かみたいな性格なので、余計にそう映ったのだと思います。


 実際、大学時代も競技も、勉強も、友達付き合いや恋愛も満遍なく、うまくやっていたような印象です。私はと言えば、大学入ってからはほとんど競技と勉強だけで、妥協できないと思ったら徹底抗戦、友達もほとんどいなくて、陸上部も2回生の10月に退部することになりました。好きとか嫌いとかではなくて、こうやれば強くなれると思ったらとにかくそれをやってみる、そこに妥協はなかったので、先輩でも誰が相手でも意見も曲げないし、陸上部のチームメイトとも一緒に強くなりたいという気持ちは特にありませんでした。卒業したら、先生になろうという人と、卒業したらマラソンで飯を食っていこうと思っている人と、求めるものが違うんだから、一緒にやること自体効率悪いと思っていました。


 一方の平井は、陸上部の中でも中心的な存在となり、京大を全日本大学駅伝出場にまで導き、好きな女の子以外の女の子からアプローチされてもご飯に行かないという真面目な一面を見せながらも、1日デートで潰す日があったりと、本当にバランス感覚があるというか、神は二物を与えずは嘘だと思わせる存在です。ただ、競技に関してはこのバランス感覚があったのが良い方にも悪い方にも作用したと思います。これについてはまた後述したいと思います。


 そんな平井が一気に注目を浴びたのは、大学三回生の時の日本インカレでしょう。10000mに出場した平井は、日本人トップの2位、タイムも28分36秒とかなりの好タイムでした。色々な考え方があると思いますが、日体大記録会や10000m記録挑戦会などの記録を出すためにお膳立てされたレースで出したタイムとインカレのような勝負の場で出したタイムは価値が全然違います。平井は強くて速くて賢い選手でした。


 もう一つ平井の凄さをあげると、この記録を完全に狙いに行って出したことです。狙わないと出ないじゃないかと思われるかもしれませんが、実は狙って出すのはかなり難しいです。力のある選手でもピークを持っていくと決めたレースの日に100%思い通りのレースをするのは難しいものです。MGCでの設楽さんと井上さんの走りを記憶されている方も多いと思いますが、日本の一流選手でもそういうことはあるものです。


ところが、平井は練習からだいたい目標タイムを28分40秒くらいに設定して、そこから逆算して必要だと思うことを淡々とこなしていきました。それ以下でもそれ以上でもなく、淡々と決めたことをこなしていくことは難しいものです。大きなレースを前にすると変な欲も出てくるし、夏場の京都は体力も消耗しやすいです。そんな中で平井は決めた以上のこともやらないし、それ以下でもない、淡々とやるべきことをこなしていきました。その辺りはある意味では、同じレベルで練習をやれる人がいなかったからこそやりやすかったのかもしれません。


 平井の練習の特徴を二つ挙げるとすれば、有酸素ランニングと特異性です。平井は練習量が少なかったのですが、いわゆるジャンクマイレージがありませんでした。たとえ距離は短くても、いつもこぎみよくそれなりに速いペースで走っていました。インカレの前も一番長くて16kmしか走らなかったそうですが、そこそこ速いペースの持久走を積み重ねていたので、トータルでの有酸素刺激はしっかりとあったと思います。


 二つ目の特徴は、特異性です。そして、何よりもこの平井の特異的な練習を支えたのが平井が入学した年にタータントラックに改装された京大のグランドでしょう。私たちが大学に入学した年に京大のグランドは工事が始まり、土の500mトラックからタータンの500mトラックへと改装されました。我々長距離選手にとっては一周が500mということも練習をやりやすくしていました。


 平井はこのタータントラックでよく一人でタイムトライアルをしていました。タイムトライアルといっても本当に全力で走るわけではありません。レースの半分の距離を目標とするレースペースで毎週のように走っていました。10000mで28分台を狙いにいく時も毎週のように、14分30−20秒で一人で走っていましたし、ハーフマラソンに出る時も毎週のように10000mを30分少し切るくらいでやっていました。練習のスケジュール上、毎週日曜日あたりにこのタイムトライアルを入れるのですが、日曜日は京大陸上部は休みです。完全に一人でやったり、マネージャーさんにタイムとりだけお願いしてきてもらったりして、一人でやっていました。


これには少しバリエーションがあって、いつもタイムトライアルではなく、5000mなら2000m3本とか、10000mの時なら1000m8本など、バリエーションはありましたが、考え方自体は同じです。ポイントとしては、目標とするレースペースになれることが大切なので、がむしゃらに速く走るのではなくスッスッスーと走れるようになるというのがポイントだそうです。


 当時の私と平井に対する練習の考え方の違いを一言で言うなら、平井はレースのための練習しかしないのに対して、私は練習のための練習が物凄く多かったです。私は今でも練習のための練習は大切だと思っています。そうしないと器が大きくなりません。マラソンのためのトレーニングでも400mのインターバルが速ければ速いほど、1キロ3分ペースが楽に感じられる可能性が多くなるし、ゆっくりでも良いから40キロ走をやった方が、速いペースの40キロ走でも疲労が残りにくくなります。勿論、先述したように5000m3本のようなハーフマラソンにとってとても実践的な練習も入れるのですが、それは氷山の一角という感じです。原理原則という面で言えば、平井も私も同じ人間だから変わりません。平井だって練習のための練習もするし、私もレースのための練習を重視しています。ただ、比重として平井はレースのための練習が中心で、私には必要最低限の練習で結果を出しているというイメージでした。


 平井の練習は極限まで無駄が省かれて、レースから一直線に逆算しているというイメージです。無駄がない上に性格的にもバランス感覚があるので、勉強も私生活もゆとりがあって、バランスよくやっているイメージでした。そんなところが私にセンスがあると思わせる所以です。私と比べてセンスがあるのは当たり前ですが、今まで数多くの選手に出会ってきた中でも、トップ3に入ります。


 平井はハーフマラソンでも62分30秒という好記録をマークしました。私は初めはハーフマラソンという距離に抵抗があり、失敗レースを重ねての63分9秒でしたが、平井は必要な練習を淡々とこなし、さらっと出したイメージの62分30秒でした。総走行距離で言えば、平井は私の半分程度だったと思います。平井ならマラソンも同じ考え方でやれたと思います。


 引く手数多の平井は最終的に進路として住友電工を選びました。理由は「住友電工だけが幹部候補生として採用してくれたから」だと聞いています。それは理由の一つに過ぎないのでしょうが、私は平井らしいなと思いました。私なら、陸上で採用されるなら辞めた後のことなんか考えません。契約形態も正社員よりも契約社員を選ぶでしょう。陸上で採用されるなら、陸上のことしか考えません。


 卒業論文の執筆で体重が大幅にオーバーした状態で住友電工に入社し、故障をしていたことは人伝てに聞いていました。入社一年目の北海道マラソンに出場を予定していたけれど、故障で出られなくなったことも聞きました。平井はスマートなようで、根性というかガツガツやるところもあって、故障明けでいきなり2時間ジョグをしたというような話も人伝てに聞きました。


 そして、その年の終わり、平井が陸上部を退部したと聞かされました。私はやはり平井らしいなと思いました。東京オリンピックに出られるだけの可能性を持った男があっさりと一年で退部していく、客観的に見ればもったいないのかもしれません。でも、私はなんとなくこうなることを予想していました。平井はバランス感覚があり、陸上以外でも能力を発揮できる男です。後から本人に聞くと「みんな仕事は陸上辞めた後でも出来るっていうけど、陸上で二年三年のブランクが大きいように、仕事でも二年三年の遅れは大きい」とのことでした。早々に結婚して、仕事でキャリアを伸ばすことにした平井、私にはその全てが平井らしいなと思えます。確かに彼なら仕事でも陸上以外に大きな花を咲かせられるでしょう。しかも陸上はやれても40歳まで、そのあとは積み重ねてきたものも直接的な形では残りません。一方で、仕事は一年で陸上辞めてそこから頑張れば、40歳の頃には約17年のキャリアがあり、しかもそのまま死ぬまで積み重ねてきたものを活かせます。平井ならどちらを選ぶか、後者を選ぶだろうなと私はなんとなく思います。




今から約二年前に新宿で久々に再開して、互いに近況報告をした。そして、その時また二年後に近況報告をしようと約束した。果たして彼は覚えているだろうか。平井とは連絡を取り合わない。どこで何をしているのかも知らない。彼も私が今何をしているのか知らないだろう。それでも彼は今でも私に影響を与え続けている。彼から学んだことはとてもたくさんあるが、嫉妬の方が大きいだろう。その嫉妬は嫌いという感情ではない、はっきりとあいつを超えたいと思えるエネルギーになる感情だ。そして、彼とやった京大トラックでの練習は一生の思い出だ。


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筆者紹介

​ウェルビーイング株式会社代表取締役

池上秀志

経歴

中学 京都府亀岡市立亀岡中学校

都道府県対抗男子駅伝6区区間賞 自己ベスト3km 8分51秒

 

高校 洛南高校

京都府駅伝3年連続区間賞 チームも優勝

全国高校駅伝3年連続出場 19位 11位 18位

 

大学 京都教育大学

京都インカレ10000m優勝

関西インカレ10000m優勝 ハーフマラソン優勝

西日本インカレ 5000m 2位 10000m 2位

京都選手権 10000m優勝

近畿選手権 10000m優勝

谷川真理ハーフマラソン優勝

グアムハーフマラソン優勝

上尾ハーフマラソン一般の部優勝

 

大学卒業後

実業団4社からの誘いを断り、ドイツ人コーチDieter Hogenの下でトレーニングを続ける。所属は1990年にCoach Hogen、イギリス人マネージャーのキム・マクドナルドらで立ち上げたKimbia Athletics。

 

大阪ロードレース優勝

ハイテクハーフマラソン二連覇

ももクロマニアハーフマラソン2位

グアムマラソン優勝

大阪マラソン2位

 

自己ベスト

ハーフマラソン 63分09秒

30km 1時間31分53秒

マラソン 2時間13分41秒

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