風蕭蕭として都路寒し壮士ひとたび去りて復たとは帰らず
これは私が高校三年生の全国高校駅伝が終わった後に自然と心に浮かんだ句です。全くもって自分のやってきたことが出し切れず不甲斐ない走りでチームに迷惑をかけてしまった私の心情を「冷えおろし」と呼ばれる北山から吹き付ける冷たく乾いた風がよく表していました。
突然ですが、あなたは走っていて如何なる綺麗ごとも、励ましも慰めもイデオロギーも意味がなくなる瞬間があるのをご存知でしょうか?
何を言われても虚無の二文字でしか表現できないあの瞬間のことです。
筆舌に尽くしがたいという言葉がありますが、まさに言葉にするのは難しい、本当に全てが無になったような、心にぽっかりと穴があいたようなあの感じです。
それは自分がある目標に向かって、全てをかけて努力したあとにそれが水泡に帰した瞬間です。
「あの時もっとやっておけば良かった」
と言えるくらいならそこまで虚しくはないでしょう。「あの時もっとやっておけば良かった」とは言えないくらいのことをやってきたからこそ、虚しいのです。
物事には何事も程度問題というものがあります。
例えば、日本選手権で二番にしかなれなかったのも敗戦には違いありません。それでも、多くの人にとってそれは何らかの意味を持つものであるはずです。
少なくとも、自分が今までやってきたことの一つの答えが形になっていると言えるはずです。
ただ、あれだけやってきたにも関わらず、全く進歩が見られなかった、あれだけ人生全部かけて走ったのに、あんなにチャラチャラ走ってるやつに負けてしまった、全てが裏目に出てしまった、そう感じられることもあります。
私にとってそういった瞬間は何度も何度もありました。
本当になんの慰みも励ましも意味を持たない、「あそこまで努力したから次につながる」という綺麗ごとも意味を持たなくなる瞬間です。
こんな時に私が求めたのは方法論です。
結局のところ、そういった虚無感を味わったとしても、自分に与えられた選択肢は続けるかやめるかの二択です。別にやめるという選択肢を取ることは悪い選択肢ではありません。
しかし、やるという選択を下したのなら、次は違う結果が欲しい訳です。
やるだけのことはやったうえでの結果なのですから、「次もまた頑張ろう」では何の解決策にもなりません。頑張れば結果が出るのであれば、もう結果は出ているはずです。
では、何が必要なのか?
慰められても、応援されても、そんなことは何の役にも立ちません。
役に立つのは方法論です。
結果が出ないやり方でやったから結果が出ないのです。
ならば、結果が出るやり方でやれば良い。
では、結果が出るやり方とは何か?
これが15歳の時からずっと考え続けてきたテーマです。
「結果が出るやり方とは何ぞや」
一行で書くと少なく見えますが、この問いは物凄い情報量を持っていて、とてもではないですが、考えられるものではありません。どこから手を付けて良いか分からないほど多くの情報量をもっています。
そこで、とりあえず私は問いを分解しました。
先ずは、「万人に共通する最適な練習計画を立てるためのトレーニングシステムとはどのようなものか」を考えることにしました。
これを考えるにあたっても別に特別な手法を用いた訳ではありません。ありとあらゆるデータを集めて分析を加えました。
我々の先輩方はまだデータという言葉がなかった時代から、データ解析を行っていました。データ解析というと物凄く説得力が増しますが、やっていることは特別なことではなく、可能な限りのありとあらゆるトレーニングプログラムを集めるのです。
そして、それを分析するのです。
そこから上手くいくパターンと上手くいかないパターンを見つけ出していき、傾向を見出していくのです。データという言葉が出てくる前は、よく傾向という言葉が使われていたそうです。
厳密にはデータと傾向は違う言葉ですが、「こういうふうにデータで出ている」と言う代わりに「こういう傾向が出ている」と言っていたそうです。
そして、とりあえず万人に共通するトレーニングシステムを見出した後に、自分が強くなるためにはどういう練習をすれば良いのかという細部を更に詰めて考えていけば良いのではないかと考えた訳です。
当時の私は当然自分が今のような仕事をすることになるとは思っていませんでした。
ですが、結果的には先に「万人に共通する最適な練習計画を見出すためのトレーニングシステムとは何か?」を考えることで応用が効くようになり、10代から60代、1500mからマラソン、性別、人種を問わずありとあらゆる方の目標達成やサポートをお手伝いさせて頂くことが可能になりました。
実はその「万人に共通する最適な練習計画を見出すためのトレーニングシステム」を一冊の書籍にまとめたのが電子書籍『純粋トレーニング批判』です。
本日は是非あなたに『純粋トレーニング批判』を紹介させて頂きたいので、冒頭を無料で公開いたします。是非お読みください。
あなたはトレーニングにおいて、実践が先なのか、理論が先なのか、はたまた少し質問を変えて、実践の方が大切なのか、それとも理論の方が先なのか、と考えた時にどちらが大切だと答えるでしょうか?あなたはどう考えますか?
私はといえば、理論が大切だと答えます。もちろん、実践が大切であることは否定しません。むしろ体で覚えなければいけないことはたくさんあります。距離が長くなればなるほど、体で覚えていく要素が多くなっていくように私自身は感じます。
私自身、大学生の時に月間1200kmとか4ヶ月で4000kmという練習量をこなしたり、一人で20kmのタイムトライアルをやったり、トラックシーズンに40km走を入れたり、周りから頭がおかしいのではないかと言われたことも一度や二度ではありません。
だからこそ体で覚えていくことの重要性は重々承知しております。プロになってからも、反吐がでるほどの基礎体力作りを通じて、今までできなかった練習ができるようになっていきました。今までは雲の上の存在でしかなかった一流選手の練習がどんどん現実的に感じられるようになってきています。
ですが、反吐がでるほどの練習をしたからこそ言わせてください。理論が間違っていれば、その後どれだけ頑張って練習しても間違った方向に進んでしまいます。中には正しいとか間違っているなんてないという人もいますが、私に言わせればとんでもない暴論です。そんなことを言えば、何も考えなくてもただ漠然と走っていれば速くなるということになりますが、実際にはごく一部の天才を除いて、何も考えなくても速くなれるほど簡単なスポーツではありません。
確かに結果を残している人には、いろいろな努力のエピソードがあります。生まれつき素質があるからと言って、大した練習もせずに結果が出せるほど甘い世界ではないのは本当です。ですから、私自身も結果を残してきた先人達のことをすごく尊敬しています。選手だけではありません。マラソンというのは選手と指導者が一つの芸術作品を作り上げる共同作業でもあります。ですから、素晴らしい指導実績のある指導者の方に対しても敬意を表します。
ですが、その一方で成功した選手にだけスポットライトが当たる一方で、成功していないけど、人並外れた努力を積み重ねてきた人はたくさんいます。人並外れた努力とは言わないまでも、強豪校と言われる高校生、大学生、そして実業団の選手も努力を積み重ねています。それでも結果が出る人、出ない人、はっきりと別れます。
なぜ私がそういうことが言えるかというと、私自身は常にどちらの気持ちもわかる立ち位置の選手だったからです。中学、高校、大学、社会人と口が裂けても強い選手と言えるほどの力はありませんでした。では弱い選手にカテゴライズされるかというと、これまた微妙なポジションです。
中学時代には個人で全国大会には出ていませんが、都道府県対抗男子駅伝に出ていますし、高校時代もインターハイは出ていませんが、全国高校駅伝と都道府県対抗男子駅伝には出ています。大学時代もインカレには出ていませんが、ハーフマラソンは63分9秒で走り、その年の日本ランクで60番くらいに入っています。
社会人になってからも30kmを1時間31分53秒、マラソンを2時間13分41秒で大阪マラソンで二位、なんかパッとしないけど、磨けば一流になる選手だよねというポジションにずっといました。
少し下を見れば、ドロップアウトしていく選手がいるし、少し上を見れば一流選手がいます。そんな中でつぶさに観察してきた私の感想として、下から上まで実はそんなに差がないんじゃないかということです。素質と呼ばれるものの存在は私も否定しません。他の人と比べて階段を一段も二段も飛ばして登っていける人がいるものです。そういった選手は素晴らしい選手でしょう。
ただ、実際のところはそっちが凄いのであって、それ以外の選手がダメかというとそうでもないと感じます。私の印象としては、素質がないからダメなんじゃなくて、明確なヴィジョンを持てていないことが原因だと思います。明確なヴィジョンとは何か?
それが私の言葉で言うとトレーニングの純粋概念です。人によって、実際にどう言うトレーニングをするかは変わると思います。また私自身は気温やその時の滞在場所、練習パートナーの有無など色々な条件によって、微調整します。
ただ、何をやるにしてもそのトレーニングには目的があります。更に言えば、今日の練習がトレーニング理論全体のどこに位置しているのかも理解している必要があります。
それを理解していなくて、ただ漠然とその日の練習を頑張っている人は、長い目で見たときに結果を残していく人は少ないです。良い時は良いんです。従って、一時期良い結果を残す時は多々あります。それは練習も頑張って、体の手入れもしっかりして、規則正しい生活を送って、寮には管理栄養士さんがいて、そうやって努力していけば、結果が出る時は出ます。
ただ、ダメになっていったときに、そのままドロップアウトしていく選手が多いんです。自分がやっていることの背景にある理論が頭に入っていないので、良い時は集中できるのですが、結果が出なくなると「こんなことやっても無駄じゃないのか」と言う方向に気持ちが傾いていきます。そして、次第に「こんなことやっても無駄だ」と言う信念が強固になり、それが現実となる日が来ます。
私自身はランニングも人生の一部として捉えていますから、競技を続けることが絶対的に良いとは思っていません。ただ、繰り返しになりますが、下から上までそんなに差がないのではないかと言うのは率直な感想です。
私自身、下を見ると自分とそれほど力の変わらなかった選手が結果を出せずにどんどん辞めていくのを目の当たりにしていますし、上を見れば、やはり自分とそれほど力の変わらなかった選手がどんどん強くなっていくのも目の当たりにしています。
私自身も瀬古さん、高岡さん、大迫さんらと比べれば全てが別格だと感じます。ただ、中山竹通さんとは23歳くらいまでそれほど、大きな差はありません。少なくとも結果を見る限りそれほど大きな差はありません。それでもそのあと大きな差が空いている訳です。埋まらないはずがありません。
では、なぜ埋まらないのかと言えば、大きく分けて二つの問題しか思い当たりません。一つ目は、私のマラソントレーニングの理論自体が間違っていると言うことです。二つ目は、理論は正しいけれど、物理場への表現の仕方が間違っている、もしくは分かっていないと言うことです。
一つ目は分かりやすい例を示しましょう。
例えば、ここにマラソン練習は量よりも質だと考えている一人の男がいるとしましょう。この男はマラソン練習においても量より質が大切で、質が高ければ高いほど良いと考えています。そこでこの男は考えました。練習において質が大切なら、100mの選手と練習すればマラソンが速くなるだろう。そこでこの男は桐生祥秀君のところに行って、一緒に練習させてもらい、三ヶ月後にマラソンに出場しました。
言うまでもなく、結果は出ませんね。これはそもそものトレーニング理論が間違っているので、そのあといくら努力しても、と言うよりは努力すればするほど間違った方向に進んでしまいます。
このケースでは、分かりやすいように極端な例を示していますが、実際にはここまで分かりやすく極端な理論を持っている選手や指導者はいません。一見、もっともらしい理論を使っているんだけれど、間違っていると言うケースがほとんどです。運動生理学の知識を過度に練習に応用しようとする人に多いケースです。
二つ目のケースは、理論は正しいんだけれど、物理空間への表現の仕方がわからないと言うケースです。理論というのは全て、物理空間の外側で構築されるものです。それを人によっては頭の中というし、また別の人は情報空間と呼ぶし、また別の人は抽象空間と呼ぶし、呼び方はなんでも良いのですが、物理空間の外側で構築されます。この物理空間にもともとあるものを理論と呼ぶのは矛盾があります。
例えば、お掃除ロボットのルンバにはアフォーダンス理論という理論が使われているのですが、この物理空間にあるルンバをいくら観察してもアフォーダンス理論というのはどこにも見当たりませんよね?
理論をもとにルンバを作っているのであって、ルンバを分解したら、中からアフォーダンス理論というものが物理的に出てくる訳ではありません。理論というものは、この物理空間に存在しないものののことです。
物理空間に存在しない、純粋形態としての理論のことを哲学の用語で純粋と言います。イマヌエル・カント教授の有名な著書に『純粋理性批判』という書物がありますが、これは純粋形態としての人間の理性(人間の推論能力)に対する吟味をした本です。分かりやすく言えば、浮気をした時に下半身の所為にする人がいますよね?
これを言い訳としてではなく、人間はある条件下に置かれると、連絡先を交換してしまい、メッセージのやり取りや電話をしてしまい、何度か一緒に食事に行って、そういう行為に及んでしまうのではないかということを真剣に検証するのが、純粋理性批判の領域です。
要するに、人間の行動を紐解いていく時に、自由意志の存在があるのかないのかを純粋に批判吟味するから、純粋理性批判です。
でも、実際には脳科学的にどうかは別として、浮気をしたら本人にその行為の責任が帰せられますよね?
やはり、ある条件下に置かれたら人間はそのように振る舞うから浮気は自分のせいじゃないというのは、詭弁として捉えられます。脳神経科学の結論がどうであろうと、自分の意志で浮気をしたとみなされ、本人に行為の責任が帰せられるのが『実践理性批判』という別の書物のテーマになります。
話を元に戻すと、実際にどうなのかということは別に、理論的にはどうなんだというのが純粋概念としてのトレーニング理論になります。純粋概念としてのトレーニング理論は当然この物理空間には存在しません。
でも、考えてみてください。量子論なしにはGPS機能は作れないし、電気の漏電の割合も多くなります。あるいはアフォーダンス理論なしにはルンバは作れないし、現代哲学における存在論の理論なしに、グーグルなどの検索エンジンなども使えません。
でもここで考えて頂きたいのは、理論なしにこういった文明の発明は行われなかった代わりに、理論だけがあってもこういった文明の利器は誕生しなかったということです。例えばですが、私のトレーニング理論を使ってプログラミングしたアプリが作れれば、誰でも自分に最適なトレーニングプログラムが作れるはずです。
でも、現実的にはそれは不可能です。コンピュータには出来ないことが多々あるからです。そうすると、理論がなければ、物理空間においても大したものは作れない代わりに、理論だけあってもこの物理空間に表現できるかどうかはまた別で、仮に理論的に表現可能であっても、それを実現するには様々な技術的な障壁をクリアしていかないといけないということです。
また理論的に間違っていたら、そのあとの活動も全て違う方向に進んでしまうということもあります。
例えば、ルンバに使われているアフォーダンス理論を例に考えてみましょう。アフォーダンス理論というのは、簡単に言えば、物理空間にある物理的な物体が情報をアフォードしてくれる(与えてくれる)という大前提に基づいています。
ルンバは家の中で色々なものにぶつかると方向を変えます。更に言えば、学習機能がついていて家の中を動き回っているうちに家具の位置などを学習し、最適なルートを学習していきます。これは家の中にある家具が、そこに家具があるという情報をアフォードしてくれるという理論から出発しているからです。
でも、これがグーグルマップとかだったらどうでしょうか?ルンバは何かにぶつかったら、それをフィードバックに、方向を変えたり、最適な掃除ルートを導き出したり、といった極めて単純な操作だから出来ます。でもグーグルカーをルンバのように街中走らせて、あそこはカフェ、あそこはファミレスということが機械に判断できるでしょうか?
スターバックスはカフェです。そして、サイゼリヤはファミレスです。でも違いは何でしょうか?
食べ物をメインに行くところがレストランで、飲み物メインで行くのがカフェだという分類もできなくはありませんが、でもサイゼリヤでテスト勉強する学生さんは飲み物メインというか、もはや勉強するための場として利用していますよね?
とりあえず何か注文しないといけないから、軽食や飲み物を注文しますが、メインは勉強のためですよね。スターバックスだって私の大学時代の英会話の先生はいつも軽食目当てで行っていました。
その先生が言うには、メイン商品は高くなるから、スタバでは食べ物を頼み、コーヒーが飲みたければミスドに行くそうです。こうやって考えて行くと、到底物理空間にある場に情報があるとは考えられません。アフォーダンス理論でいけば、店内をつぶさに観察すれば、どれがカフェで、どれがレストランか明確に定義可能でなければいけません。
もちろん、人間がやればある程度は出来ます。でも、それは人間は物理空間の外側の情報も普通に認識することができるからです。
でも機械には無理です。アフォーダンス理論が正しいのであれば、ルンバを店内走り回らせてあちこちぶつかってるうちに、ここはカフェです、ここはレストランですと言うのがわからないといけません。でも、実際には物理的な建物やテーブル、椅子、メニュー表、そこにある食べ物、飲み物でカフェかレストランか分かると言うのは無理だと言わざるを得ません。
レストランと喫茶店、居酒屋とバー、ホテルと旅館などの類似概念も人間なら分かりますが、物理空間にある物体が情報を教えてくれるとは到底思えません。条件を曖昧にすれば、必ずカフェなのにレストランと認識する機械が出てくるし、条件を具体的にすればするほど、カフェなのにカフェと認識しない機械が出てきます。
結局のところ、アフォーダンス理論には限界があると言うことです。ですから、出発点としてのアフォーダンス理論が間違っているわけですから、ルンバを作るには良いけど、グーグルマップを作成するにはアフォーダンス理論は使えないと言うことです。最終的には人間の判断なんです。
説明が長くなりましたが、初めの理論が間違っていれば、そのあといくら努力しても上手くいかないのはトレーニングも同じです。でもなかなかそれは気づかないものなんです。読者の皆さんの中にも人工知能に任せておけば、なんでも可能になるように思っている人も多いのではないでしょうか?
ですが、実際には人工知能もある理論に基づいてプログラミングをしている訳ですから、自分が実現したいものに即した理論を使わないとそのあといくら開発をしても上手くいきません。アフォーダンス理論を用いて機械に地図を作らせるのと同じような誤りを犯してしまう訳です。
もっと言えば、お掃除ロボットのルンバも伝統的な日本の家屋のように、机がなかったのにちゃぶ台出したり、ちゃぶ台を片付けて、そこに布団をひいたり、ドアも西洋の家屋は開いてるか閉まってるかしかありませんが、ふすまなら取り外しもできます。
そうやって考えると、アフォーダンス理論に基づいて作ったルンバに最適なお掃除ルートを学習させると言う発想は、日本の家屋に対応していないことが分かります。アフォーダンス理論は、物理空間にある物体が情報を与えてくれると言う発想は、置いてある家具でその部屋が居間なのか、寝室なのか、ご飯食べるところか分かると言う前提から出発している訳ですが、日本では食堂が居間になって、居間が寝室になって、寝室が食堂になります。
そうすると、やはり理論が破綻していますから、そのあといくら開発を続けても理論を変えない限りは、最適なお掃除ルートは作れませんよね?実際にはぶつかって方向を変えてくれれば、掃除はしてくれるので、商品としては問題ないのですが、でもやろうとしていることとその理論が一致していないと無駄な努力に終わることも多くなってしまいますよね?
ですから、もう一度まとめておくと、マラソンで結果を出したいと言う目標に適した最適な理論を使わないといけないと言うことが一つ、その理論を構築したところで、それをこの物理空間でどこまで正確に表現できるかはまた別問題というのが二つ目の問題です。
実はここまでは現在出版中の新刊『純粋トレーニング批判』の導入部分です。続きは『純粋トレーニング批判』の中でご覧ください。長距離走・マラソンにおける純粋なトレーニング理論についてA4用紙50枚ほどでまとめています。あなたが『純粋トレーニング理論』を読むメリットは以下の通りです。
・最適な練習計画を立てるためのトレーニング理論が理解できる
・理論に関しては絶対的に正しいトレーニングの最適解を理解することができるので、迷わずに前に進んでいくことができる
・自分で試行錯誤をしながら自分にあった練習計画を立てることができるようになる
・自分のランナーとしての目標を最短で達成することができる
・サブ3、サブ2.5、5000m15分台などのエリート市民ランナーの仲間入りができる
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