限界はどこから来るのか?
マラソントレーニング及び中長距離トレーニングというのは物凄く単純な競技です。本来難しいものではないはずなのですが、実際にやってみた人の大半が難しく感じるものです。初心者の間は苦しさになれさえすれば、やればやるほど速くなっていくのでそういう意味では楽なのですが、競技として取り組む人は多かれ少なかれどこかで、練習しているのに伸びないという現象を経験します。そういった時、周囲の人間を含めて大半の人が「自分の限界」、「素質がなかった」の一言で済まそうとしますが、本当にそうでしょうか?
勿論、人にはそれぞれ素質の違いというものがありますので、あなたも桐生祥秀になれますとか、モーツァルトになれますとかは口が裂けても言えませんし、めぐりあわせの運もあります。今の時代あなたがどれだけ優れた漫才師でも島田紳助さんやビートたけしさんになるのは難しいですし、映画と野球くらいしか娯楽がなかった時代の王さん、長嶋さん、石原裕次郎さんを人気で超えるのも無理かもしれません。
一方で、素質の限界、自分の限界と口にする人もたいていの場合はそこが限界ではないです。あなたが素質の限界といえるのは、トレーニングも休養も栄養も心理的テクニックも全てが完璧になって初めて、そこが素質の限界だといえます。ただ、そこに到達できる人間というのはほんの一握りの人間のみです。例えあなたに肉体的な素質がなかったとしても、その領域に達していれば、少なくとも職業としてはやっていけます。またマラソンに関して言えば、30歳よりも若い選手が素質の限界に達することはまずないと断言できると思います。これは競技の特性上長きにわたるトレーニングと経験が必要だからです。
何故か日本のマラソン界では指導者が軽視されているように感じられますが、まだ素質の限界に到達していないのに、壁にぶつかっている選手が最も必要なのは経験のある指導者だったりします。勿論、指導者ならだれでも良い訳ではなくて、優れた指導者である必要がある訳ですが、ノーリツの里内正幸さんのような人なら的確なアドバイスをして選手を変えられるはずです。
日本のマラソン界にはまだ野球の野村克也監督や三原侑監督、仰木彬監督のように超二流といわれる選手達を限定的に一流の働きをさせる指導者というのは出ていませんが、本来は優れた指導者ならこういった他チームで伸び悩んでいる選手を引き取って再生させることが出来るはずです(その選手にまだ情熱があれば)。野球と違ってマラソンは個人競技ですし、実業団がプロの論理で動いていないので、安くで引き取って給料以上の働きをさせるという発想がないのかもしれません。
では何故、優れた指導者なら選手を変えることが出来ると私が考えるのか、何故マラソンという単純な競技で伸び悩むということがあるのか、その根拠をこれからお話ししたいと思います。
全体最適と部分最適
皆さんはマラソントレーニングをどのように捉えていますか?ただ走るだけの単純な競技なので、ほとんどの人は一次元的に捉えていると思います。もう少し具体的に説明すると、野球なら野手は打って走る、捕って投げるという要素があり、更に投手がいます。そこから更に打つなら高め、低め、外角、内角、送りバント、セーフティバント、単打、長打、四死球などいくつもの要素があります。そして、これらの要素がいくつも重なり合ってチームの順位が決まっていくわけです。要するに、野球に関して言えば、誰もが多次元的に構成されているということが分かっています。
そして、ある部分を改善してもそれがチームの勝利に必ずしも結び付くわけではないということは誰でも知っています。例えば、2004年の巨人軍は史上最強打線といわれ、チーム本塁打数ではプロ野球記録を作りましたが、リーグ優勝は逃しました。チーム本塁打数が少ない方が多い方がと聞かれれば、明らかに多い方が良いです。でも2005年の巨人軍が更にチーム本塁打数を増やすことを目指していたとすれば、それは賢明な判断だったと言えるでしょうか?答えは明らかに否ですよね?これが部分最適と全体最適の違いです。部分的に最適化することと全体的に最適化することは違います。
実はマラソントレーニングも野球と同じでいくつもの要素で構成されています。基礎持久力、基礎スピード、特異的持久力、特異的スピード、休養、ピーキング、栄養といった様々な要素が複合的に重なり合います。これらが複合的に重なり合うのでトレーニングで部分最適を行っても全体最適につながるとは限りません。また足し算ではないということも強調しておきたいと思います。全体は部分の総和ではないというのがマラソントレーニングの特徴です。極端な話、他の全ての要素が上手くいってもレースの二日前に風邪をひいたらそれですべてがおしまいです。他の全てが完璧でレース二日前に風邪をひいてマイナス5点で95点の走りが出来るということにはなりません。部分の合計が95点でもレースの2日前に風邪を引けば良くて50点程度にしかならないでしょう。
通常は「レースの2日前に風邪をひいた」のような極端な話にはならないので、全体最適を図るのが難しくなります。要するに、どうすれば全体最適を図れるのかが分からない訳です。これは本人も分からないケースがほとんどです。イメージとしては、スプリント能力みたいな最も基礎的な能力からレース結果までが何層にも連なっていてその何層にもわたる構造の中から原因を探し、しかもそれが全体に調和するように変えなければいけないということです。
部分的には退化することで全体最適が起こることもあり得ます。よくありがちなのはインターバルはどんどん速くなるのにレースの結果は上がらないというケースです。マラソンだけではなくトラック競技でもよくあることで、私の高校時代もインターバルをやると強いのに駅伝になると走れない選手がたくさんいました。幸運にも私は三年間、駅伝は走らせてもらえましたが、持っている素の能力で言えばチーム内でも大したことはなかったと思います。唯一の違いは私は休憩をはさんでも速く走れなかった代わりに、休憩をはさまなくてもインターバルに近いペースで走ることが出来たということです。
人間の体には固有の限界があり、その時受け入れられるトレーニングの刺激量も限界があります。限られたトレーニングの刺激量をどのように分配していくのかと考えた時に、ショートインターバルに割く労力を減らすというのは一つの有効な考えです。当然、その分の基礎スピードは落ちるのですが、目標とするレースペースで長く走るようなトレーニングを増やせば全体最適は達成されます。
全体最適と部分最適は車の両輪
このように話していくと全体最適のみが大切だと感じられるかもしれませんが、決してそうではありません。部分最適の積み重ねなしには全体最適は達成できません。例えば、マラソン界で最も全体最適を体現しているのは川内優輝さんだと思います。実際、マラソンでの二時間十分切りの回数などは断トツですし、ボストンマラソンでも優勝しています。誰もマラソンランナーとしての実績を否定できないと思います。それでもやっぱり可能性を感じる選手は川内さんよりもトラックで27分台を出している選手になると思います。部分が最適化されて初めてその上に全体の最適化があるからです。
このように部分から全体へと無数にある階層の中でそれぞれを改善しながら、相互の影響なども考慮に入れて全体を最適化していく必要があります。優れた指導者は具(つぶさ)に観察しながら、どこを改善すれば全体が最適化されるのかが分かる人です。例えば、「ショートインターバルを改善する」のような単一の要素だけを見るのは誰にでも出来ます。また逆に全体だけで判断するのも誰でも出来ます。レース結果だけを見れば良い訳です。難しいのは部分から全体までを具(つぶさ)に観察し、改善方法を明確に提示することです。
これは走り方も同じです。走り方も全体的に見てどうかということが一番大切なのですが、優れた指導者は部分を指摘することで全体を整えることに長けています。私の知っている中では第一回大会から途切れなく全国高校駅伝に出場している立命館宇治高校の荻野先生が凄い先生で「左肘を引け」などと一言アドバイスすると選手の走りが整います。結局、日々の積み重ねでレース結果は決まるので毎日こういう風に修正してもらえて常に良い形で練習が出来れば強くなるのも当然だなと思います。
ただこれは形だけ見て部分を最適しているわけではないのです。他の指導者はたとえその場にいても、全体が見えていないので「腕の状態がああなっているときは肘を引かせれば良いのか」と思う訳ですが、問題はそこではなくて左肘を引くように意識させることで全体が整うということが大切な訳です。場合によっては、左肘を実際に引くかどうかはどうでも良くて、それを意識させることで全体が整うことすらあります。
部分と全体の関係性を見極めて、どうすれば全体最適がはかれるのかということを考える時に、次元を上げる必要が必ず出てきます。1次元の人に奥行きを説明しても分かりませんし、2次元の世界の人に高さを説明しても分かりません。3次元の世界の人に過去とか未来といってもこれも分かりません。優秀な指導者というのはこの次元が高い人と思ってもらえれば良い訳です。次元の高い人から低い方はよく見えるのですが、下から上は説明されても分かりません。分からなくても良いから、次元の低い人にも分かるように別の言葉で説明できるのが優れた指導者です。もしくは、どうせ説明しても選手には分からないのだから黙ってトレーニングプログラムを変えれば良い訳です。
でも選手も素人ではないから、やっているうちに何か感じるものが出てくる訳です。
スポーツでは結果が全ての世界といわれます。観る側の人間や経営者の立場からすれば結果が全てで良いのです。乱暴な話、どうせ素人なんだから結果でしか判断できません。そして、選手の立場からしても最終的にはファンの人と経営者の判断でその選手の評価は決まるのでそれを受け入れるべきです。
でも現場の人間は結果が全てでは困ります。部分から全体までを具に観察して、部分最適と全体最適を上手く嚙合わせる必要があります。結果が良くてももっと部分最適を図れる部分があるのが通常です。当然部分が改善されれば次は全体が改善される可能性が高まります。
逆に結果が悪くても部分的に改善され続けるのであれば、歩みを止めてはいけません。部分の改善そのものは良いことです。問題はそれが全体最適に結びついていないことなので、部分の改善は部分の改善で評価して、どうすれば全体最適に結びつくのかを考えるべきです。
現場の人間というのは周囲から褒められてもくさされても、そこには終わりのない改善が待っているので、態度を変えずに具に観察し続け改善策を考え続けるべきです。
次元を上げるにはどうすれば良いか?
では次元を上げるにはどうすれば良いのかということですが、これは知識と経験を増やすしかありません。知識と経験の両方であって、どちらか片方ではありません。知識に関して言えば、どれだけ本を読んだかとどれだけ人の話を聞いたかで決まりますが、これは足し算ではなくて各知識と知識をどれだけ結び付けてネットワーク構造に出来ているかが大きくなります。経験に関しては年数×解釈で決まります。30台、40代という若さで優れた指導者になる人もいるのは年数が少なくてもそれに意味付けして咀嚼(そしゃく)していく能力が高いからです。
知識は通常年齢と共に増えていきます。私自身3年前とは比べ物にならないくらい知識は増えています。経験も年数と共に増えていきます。これは言うまでもありません。私がこの記事内で優れた指導者の存在を強調しているのは、どれだけ優れた人でも20代ではなかなか高次元の視点を持つことは出来ないからです。そして、たいていの人は自分の競技レベルと同じか一段上くらいの視点しか持てません。そしてそのことに気付くのは自分が上の次元に達した時だけです。下から上は分からないので、今の自分にとっては存在しないのと同じなのです。
私自身で言えば、高校生を全国高校駅伝に連れていくくらいであれば、都道府県にもよりますが、難しくないと思います。次元が自分よりはるかに下の子達なので問題の在りかがよく分かるからです。生徒指導になれるまでに数年、選手の力がついて本人たちにも自信がつくまでにさらに数年かかるとしても、技術指導に関しては全く問題ない訳です。
ただ、結局のところ、自分自身に関しては自分の競技レベルの一段か二段上くらいの視点しか持てません。向き不向きの話で言うと私の場合は、体を動かすよりももともと勉強している方が向いている方なので、体で体現できるレベルよりも頭で理解できる部分の方が多いのですが、普通はどちらかといえば、走るのが速い人はとにかくやってみたら出来てしまったという人の方が多いのが現実です。
いずれにしても優れた指導者の存在はいるに越したことはありません。
全体最適を達成する上で必要なのは調和です。調和というのはバランスとは違います。バランスというのは秤の両側の重さが等しいのがバランスです。語源から言っても英語のbalanceはラテン語のbilanxからきており、biは二つの、lanxは皿を意味する言葉です。要するに、天秤の両側のつり合った皿を意味しています。
一方で、調和という言葉は古代ギリシャ語のharmoniaに由来しており、harmoniaとはギリシャ神話に出てくる調和の女神の名前です。この調和の女神さまは愛の神アフロディテとその浮気相手で闘争の神アレスとの間に出来た子供です(愛の神なのに浮気するのか、愛の神だからこそ浮気するのかという疑問はとりあえずここではおいておきましょう)。
要するに、バランスが二つのものがつりあっている状態なのに対して、調和というのは相反する概念を矛盾なく内包出来ることを言います。私のイメージではとても愛情深く献身的で、生徒のことをいつも考えているのに、すぐ殴るし、怒るし、黙ってるだけで半端ではない威圧感のあった高校時代の恩師みたいな感じでしょうか。これってやっぱり優しいだけでは慕われないし、尊敬もされないけど、怖いだけでも反発を招くだけなんです。
マラソントレーニングにおいては1.負荷と休養、2.質と量、3.一般性と特異性の調和によって、全体の結果が決まります。一流選手というかストイックな選手はこの3次元における6つの要素(負荷、休養、質、量、一般性、特異性)を満遍なく追及するわけではありません(従って、全てバランスよくほどほどにやるわけではありません)。この6つの要素全てを徹底的に追求し、そして調和を図ることを目指します。
とは言え、部分最適と全体最適という二つの視点を意識するだけでもだいぶ変わるとは思います。よく今は「スピード化の時代、持久力重視の練習は時代遅れ」とか、あるいは逆に「自分には才能がないから持久力重視の練習」という人がありますが、どちらも全体最適と部分最適という視点が抜け落ちています。ショートインターバルのタイムを競うことも月間走行距離や40㎞走の本数を競うこともどちらも等しく本質からは離れています。
また部分最適と全体最適という二つの視点を持つことはあなたが会社の経営者であれ、受験生であれ、必要な視点だと思いますので、ぜひご自身の生活に落とし込んでみてください。
追伸
どうなる?これからの真剣なランナーの学び方
今日も私の長文にお付き合いいただいたあなたへ
いつも記事を読んでいただきありがとうございます。
優秀なコーチの存在を何度も強調してきましたが、結局そもそもあなた自身によっぽど光るものがない限り、優秀なコーチをつけることなんてできません。優秀なコーチであればあるほど、光るものを持っているごく一部の選手をみたいと思うのでいくらお金を積んでも動かないのが普通です。結局あなたが既によほど優秀でない限り、優秀なコーチをつけることなんてできません。
文中では知識をつけるには本を読めば良いと書きましたが、残念なことに名選手や名伯楽の書く本も結局売れる本は初心者向けの内容が薄くてイラストが多いものばかりです。逆に言えば、出版社からすれば売れる本を求めるので、出来るだけ多数の人を対象にして内容を落とす必要があります。
今は情報化の時代といわれますが、ブログは本以上にお手軽で、サーチエンジンの引っかかりやすい検索キーワードを盛り込み、気軽に数分以内で読めるものにする必要があるので、本当の情報なんてインターネット上にはありません。
実はこれはかつて一人で誰からも期待されずにトレーニングしていた私が直面していた深刻な悩みだったのです(ちなみにあまりにも情報が無いので、黒木亮さんという経済小説家の自伝小説『冬の喝采』を参考にして練習していたくらいです)。
そういった真剣なランナーのあなたの為に解決策を提示すべく手紙を書きましたので、是非「最短最速で目標を達成したいあなたへ」をクリックして、全文をお読みください。あの孤高のランナー藤原新さんも実践し、効果を感じた内容です。